春一番

道長ものがたり』 山本 淳子著

 今話題の「藤原道長」についての本である。巻末にきちんと年表も参考文献もついた学者の方の書であるにもかかわらず素人が読んでも実に面白かった。もちろん書かれるのはテレビとは一線を画した道長の実像だ。

 道長藤原兼家の三男だが、左大臣源雅信の倫子(テレビでは黒田華)に婿入りしたことから幸運は始まった。(平安期の結婚は男が女の元に入る婿入り婚)道長自身も「男は妻柄なり」と正直だ。さらに二人の兄の早世や甥たちの不祥事で思いがけなく公卿第一の地位に三十歳で就任、以後着々と階段を登り、栄華を極めた。倫子となした四人の娘はすべて入内させ、三人が中宮となり、三人の天皇外戚となった。

 全く運が良かったのだが、運ばかりでもなかった。悪辣なことに手を染めたりはしなかったようだが、それなりに姑息な工作や意地悪はした。それがこころの重荷になり、さまざまな怨霊に悩まされたのも事実だ。晩年病がちになり、娘を失ったりしたのも、怨霊の祟りだと慄いている。

 この本には同時代の「紫式部日記」「少右記」「権記」などに記された道長像を紹介しているが、愉快なのは「紫式部日記」の伝える妻倫子に頭の上がらなかった道長像である。

 彰子が産んだ敦成親王の誕生五十日の祝の宴のあと、上機嫌な道長が家族の前でこう語ったという。

 「中宮の父さんとして、まろはなかなかのものだ。また、まろの娘として、中宮はなかなかでおられる。母もまた、運が良かったと思って笑っておられる様子。いい夫を持ったことよと思っていると見える。」

 手放しの「我ぼめ」に妻倫子は不愉快そうにぷいと席を立ったという。倫子にしてみれば、運がよかったのは彼女ではなく、自分を妻にした道長の方なのであると言いたかったのだ。道長は倫子のこの態度に気づくと、「お部屋までお送りしないと、母はお恨みになるからな」と言い訳しながら、あたふたと彼女の後を追ったとある。

 さて、道長紫式部の関係である。歌の贈答があり、これを恋の歌に入れたのは定家であるらしい。二人の間に秘めたる何かがあったか。「少なくとも彼女の側には、道長を想っていた形跡が窺える」と。しかし、たとえ関係があってもそれは一時的なもので、知的なブレーンの一人として道長体制を支えることこそ彼女の誇りだったようだ。テレビドラマのように道長の想い人だったとはとうてい考えられない。

 道長は享年62歳だが、妻倫子は享年90歳、第一の娘彰子は享年87歳。今と比べても破格の長寿である。やはり彼の運を支えたのは女達だったのかもしれない。

 

 

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