秋ついり

『たまさかの古本屋 シマウマ書房の日々』 鈴木 創著

 この本から得た知識によれば、古本でも「まだ新刊でも流通しているような年数の浅い本のことを『白い本』、戦前の本などのようにすでに絶版となって古書でしか入手できない本を『黒い本』と呼ぶ」そうで、シマウマ書房という店の名前はそこからきてるとのこと。シマウマ書房は名古屋の今池にある古書店だが、残念なことにおじゃましたことはない。

 さすが本の森の中にお住まいだけあって、初めて聞く書名やら印象的な一節の引用など、いくつか検索したりメモを取ったりしながら、読ませていただいた。ホームページによれば、現在買取は中止されているようだが、私の乏しい愛蔵書なども、できればこういうお人柄の店主さんに、始末していただきたいと思ったことだ。

 さて、この本の一ページに、次のような一文の紹介があった。

「人間の歴史はけっきょくのところ、さまざまな不安定要素に対して日常を拡大しつづける努力だったのだ」  安部公房『死に急ぐ鯨たち』より

 最近のニュースを見ていると、大きな括りをすれば「戦争」と「温暖化による災害」の不安なニュースばかり。最近それに「AIによるシンギュラリティー」も加わった。2日ばかり前の朝日新聞によれば、AIの使い方を間違えれば、10年後には暴走したAIによる人類絶滅の可能性もあるという。ささやかな「日常を拡大しつづける努力」は、いったいどうなるのであろうか。

 書評からとんだ話になってしまったが、杞憂で終わればいいが「戦争」と「温暖化」は紛れもなく現実である。今日の「北陸の大雨」は、こちらにも激しい降りをもたらしている。

 

 

              古本の活字小さし秋ついり

 

 

 

豊田市美術館 クリムト

法師蝉

『戦中派』  前田 啓介著    その2

 戦争が終わって死の淵から生還した彼らは、まず「なぜ自分が生きて還り、なぜ友があるいは仲間が死ななければならなかったのか」という自責にも似た思いに駆られた。

 生と死の間に引かれ、偶然に友と自分を隔てたその線を、彼等ははっきりと見たのだ。そして、帰ってきた国が、ふるさとが、時代が死を賭して護らんとしたものとはかけ離れて行くのを感じた。

 そんな想いの中で、吉田満は『戦艦大和ノ最期』を書いた。初稿は1945年9月、ほとんど一日で書き上げたという。改訂すること十回、なぜそこまだこだわったのか。江藤淳は「死者との交感と鎮魂のためにこそ書かれたのであり、・・・その行為は作者自身の再生のためにも必要な祭儀であった」と書いた。

 多くの死を持って贖った戦後が、何も変わらないのではないか、そういう疑念が戦中派の多くの心に兆し、生き残ったことへの後ろめたさと共に彼らを苦しめた。

 1950年朝鮮戦争の勃発。朝鮮特需などにより1950年代半ば以降経済は急激に回復、高度経済成長に向かっていく。この高度経済成長の中心的推進を担ったのも戦中派であった。「どうせ死んだ命だ。命がけで働く。」という労働観を生み出したというのだ。

 1989年昭和天皇の崩御。多くの戦中派世代は定年を迎えた歳となり、「社会での主体的な役割」をほとんど終えていた。その春、古山高麗雄は書いた。「戦後、何でも言える国になったはずだが、わが国民は、世につれる性が強く、だから、国民もマスコミもたちまち、ひとつ調子になる。・・・少なくとも、自分は、このひとつ調子の外にいなければならぬ。・・・揶揄されるが揶揄するものになるな。揶揄するよりは揶揄されるものになれ・・・」

 戦中派世代を1917年から1927年生まれとすれば、今や109歳から99歳。おそらく殆どの人が鬼籍に入られたことだろう。彼らがどういう思いで青春を送り、どういう葛藤の中で生と死を見つめたか。さらに生きて還った人たちはどんなメッセージを残していったのか。読まれて欲しい本である。 (第74回日本エッセイスト・クラブ賞受賞作品。)

 

 

            宿題の仕切り直しや法師蝉

 

 夏休みも少なくなってきた。未だ手つかずの宿題やら課題をもう一度見直して、遂行計画を立て直したという経験はお在りではないだろうか。とにかくこれからが追い込み時だと、プランを作り直したことだ。

 この歳まで、きちんとしたいのになんとか辻褄を合わせてきたという生き方が、ずっと続いているような気がする。

 

敗戦忌

『戦中派』 前田 啓介著

 「死の淵に立たされた青春とその後」  その1

 「戦中派」とは「死を生のなかに内包して生きた世代。」戦中派世代が自ら名乗った呼称であり、筆者の定義では1917年から1927年生まれの人たち、中でも最も死者が多いのは、1920年から1927年生まれだという。

 つまり幼年期は「教養文化と大衆文化が進展」、比較的恵まれた時代であったにもかかわらず、1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争とどんどん暗く息苦しい方に進んでいった時代と成長期が合致した人々。

 この間少年期から青年期を迎えた彼らは、迫りくる死の予感の前に自己を見つめ、よく生きんと欲したが、1943年学生の徴兵猶予も停止。やむなく学窓から戦場に向かはなければならない人も多かった。

 

 一九四二年の秋あたりから

 一人ずつ

 一人ずつ

 新宿の夜と霧の酒場から

 男たちが

 消えていった 三十人の

 男たち まるでアガサ・クリスティの

 探偵小説みたいに まるでマザーグースの

 テン・リトル・ニガーズみたいに

 当時を詠んだ田村隆一の詩である。自分の未来、自分の夢、自分の最愛の人、そういったものすべてを投げ捨てて戦場に赴かねばならぬ理不尽さを、この本では、吉田満や古山高麗雄らの立場を通じて語っている。

「無言館」に描画を残した人も、『わだつみのこえ』を残した人も、鶴見俊輔も司馬遼太郎も金子兜太も水木しげるもみんな、そのひとりであった。

 

 卑近な我が家の例になるが、上の姉は1924年、下の姉は1927年。いずれも戦中派に該当するが、女性だから免れたというべきか。同級生には予科練に行った人もいたとそんな話を聞いたこともあった。

 死の淵から帰還した彼らが、「戦後」をどう生きたのか。この続きは又にします。

 

 

             公園に半旗の揚がる敗戦忌

 

 

 

 昨日、図書館に行ったら公園の国旗と市旗が半旗になっているのに気がついた。おそらく戦死者の冥福を祈るためのものであろう。連れ合いと二人でテレビの前で黙祷をした。それからこの本を読み進めた。

 

戦争(無季)

『笹まくら』 丸谷 才一著

 毎年八月は戦争関連本を読むことにしている。今年は何にするかと思っていた時、NHKテレビで丸谷さんの『笹まくら』がドラマ化され放映されることを知った。主演の森山未来は好きな俳優である。ぜひ観ようと思って、はてさてどんな結末だったかと思い至った。書き出しは記憶にあるのに全体像が思い出せない。読了してなかったのかもしれないと、Tの書棚から出してきた。

 Tの話では、この本を「打ちのめされるようなすごい本」と評したのは米原万理さんらしいが、確かに読み応えがあった。

 主人公はあの戦争の徴兵拒否者である。見つかれば重罪という危険を犯して5年間逃亡し続けた男は、戦後前歴を隠して大学の事務方として働いていた。しかし、ちょっとしたことから前歴が暴露され精神的に追い詰められていく。逃亡中と現在とが入り混じったストーリー展開で、不安や疑心に追い詰められていく様子が、重苦しい緊迫感で迫り、まるでミステリーのようだ。

 結末まで読み切ることが辛いなと思っていたが、最終的には救いのある終わり方でほっとした。読み終わるまでドラマは封印していたので、これでドラマも観てみようと思う。

 

 

       戦争が隣の部屋から覗いてゐる

 

 

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」と詠んだのは渡辺白泉だが、今は隣の部屋からこちらを覗いて隙あれば踏み込もうとしている状況かしらん。「非核三原則を堅持しており‥現実的かつ実践的な取り組みを推進しています。」とは、もっとらしく誤魔化した言葉。

 

エゴンシーレ(豊田市美術館にて)

 

夏休み

アンドリュー・ワイエス展を観る

 猛暑の谷間のような一日、思い立って豊田市美術館の「アンドリュー・ワイエス展」に出かける。

 静謐な精神性を感じさせる絵画であった。「窓」を描いたものが多く、窓の外の明るい世界と屋内の日陰が対照的であり、なにか象徴的でもあった。

多くの作品の中で特に好ましく感じたのは、窓から吹き込む風をとらえたもので、自身の田舎暮らしに繋がる幸福感を感じさせる作品だ。

 

 別室で「ヤノベケンジ展」も開催中

 この他常設展示、高橋節郎(漆工芸作家)の作品も鑑賞。

  学校の課題なのか、中学生らしい人たちがプリントにメモしながら鑑賞をしていた。朝一番で入館したが、帰る頃は駐車場も満車であった。

 

 

         メモしつつ絵画鑑賞夏休み

 

熱帯夜

『巨大古墳』 森 浩一著

 先週は連日の酷暑と病院通いで過ぎた。週初めに日帰りでちょっとした手術を受け、どうにか痛みが治ってから別の病院へ先週受けたCTの結果を聞きに行く。こちらの結果は珍しく少し問題ありで、秋に再検査をして様子を見ることになる。まあ、傘寿を過ぎればいろいろあるのが普通かとあまり心配はせず。

 森さんの本はこの間に読んだもの。巨大古墳、主に大山古墳についてまとめられたものである。

 大山古墳は伝仁徳天皇陵と言われ、国内最大の前方後円墳である。仁徳天皇陵といっても確証がない話なので、森さんは大山古墳と呼ばれる。以下森さんの説に従ってこの古墳に付いての概要を、個人的な記憶のために記録したい。

 先ず周濠であるが、現在は一部三重の部分があるが、元々は二重であった。三重目は明治期に新設。三段築成である。

 造営工事の期間は日本書紀の記載によれば足掛け21年、携わった工人は述べ280万人ぐらい。

 陪墳と思われるもの15基。

 明治5年、前方部竪穴式石室から、長持形石棺発見。台風か地震の崩れかと思われたが、著者は清掃に名を借りた意図的な発掘とみる。この時石棺外に甲冑、剣、陶器類を発見。記録して埋め戻された。

 築造されたのは5C中葉か。根拠としては、被葬者と思われる「倭の五王」の時代からの推測、出てきた円筒埴輪や長持石棺の年代、上記の発見で描写された甲冑などの様式からである。

 埋蔵品。上記の発掘(?)で判明したのは、甲冑(眉庇付き冑と鋲留の短甲)、硝子杯、太刀、鉄刀。いずれも埋め戻されたというが、最近短刀が表に出てきた。

 ボストン美術館に「仁徳陵出土」とされる刀の環頭と銅鏡があり。他にも同時期の馬鐸と三環鈴もあり。入手経路がはっきりせず、著者は鏡は年代的には問題ないが、環頭については時代的ズレがあるように思うという。最近ではどう考えられているのか不明だが、「仁徳陵の出土品」で検索すると写真が出てくる。

 

 この本では、もう一基の大型古墳、「誉田山古墳」については簡単に書かれている。この古墳はすでに平安期から応神天皇陵とされているが、科学的な調査や円筒埴輪での編年からも応神の年代と一致しないという。日本書紀に不思議な埴輪伝承がある古墳でもある。出土埴輪が多く、内濠からは魚形土製品(鯨、烏賊、蛸、鮫、海豚)なども出ている。陪墳と思われるものから、鏡や武具、玉類などが多数出ている。

 

 著者はふたつの古墳の時代は現大阪平野に巨大な「河内湖」があった時代だという。巨大な湖が交易にも利用され、安定した水産物の供給ももたらしていたが、湖に流れ込む河川のための氾濫もあり、仁徳期に排水用として大川を人工的に掘削した。(日本書紀)つまり河内の巨大古墳は、この土木工事と表裏一体であるというのだ。

 

 各地の古墳めぐりが嫌いでない当方だが、このふたつの大古墳を身近で見たことはなく、近くを通った時も周濠の堤防を眺めた程度である。最近はバルーンで高いところから見渡す手立てもあるようだが、そこまでしたいという気はない。今回大まかな全容を知って、それはそれで満足である。

  

 

 

          製氷機ガラリと落とす熱帯夜

 

 

 

 連れ合いの西瓜が上出来である。苗は3株購入で今までに6個収穫。最初2個をカアー公にやられた時は、今年は駄目かと落胆したが、カラス対策も功を奏して、天候も幸いした。まだなっているというので驚く。毎日昼寝後のおやつである。

 

驟雨

『将軍の都の客人』 エイミー・スタンリー著

                        原直史監訳 石垣賀子訳

 この本は、19世紀前半この国に生きたひとりの女性(常野)の生涯記である。驚くのは筆者がアメリカ人の日本史研究者で、膨大な古文書を読み込んで英語で書かれたという点である。プロローグで筆者は、常野に出会ったチャンスを回想している。それはネット上での新潟県文書博物館の「林泉寺文書」の紹介であった。今は廃寺となった新潟県の山間(石神村)にあった寺に遺された膨大な古文書。公式の文書や過去帳と共に残された家族の歴史。常野という寺の娘が江戸へ出奔。あれやこれやとふるさとに送った書状やらその返書から読み解かれたのがこの一冊なのだ。

 僧侶である兄の記録によれば、常野は十三才で最初の結婚をし、その後離縁、結婚、離縁と三度も繰り返している。離縁事情はよくわからないが、晩年まで子がなかったことを思えば、それが原因かも知れぬし、兄が我儘だと嘆くように「直情的で意志を通す」タイプだったからかも知れぬ。それに加えて当時の東日本を襲った「天保の大飢饉」の影響もあったかもしれぬ。(常野の二番目の嫁ぎ先は大百姓だったが飢饉で困窮した。)三回目の離縁のあと、田舎での鬱屈した暮らしにすっかり嫌気がさした常野は、家族にも黙って江戸に出奔してしまう。三十六歳の秋であった。

 冬に向かうという季節で調子の良いことを言って江戸行きを誘った男には去られ、着た切り雀で夜具もなく、冬を越さねばならぬ心細さと惨めさ。今さら古里に泣きつくわけにもいかぬが、常野はそれでも母に文を書かずにはいられなかった。

「さてわたくし ふとい(え)ど かんだみな川町へ まへ(参)り なんぎ いたし候」

 あいにく越後は雪に閉ざされた季節である。母からも兄からもすぐに返事はなく、万事に追い詰められた彼女は、江戸の遠縁を頼ってどうにか暮らしの目処をたてた。薄給での武家屋敷の下女である。

 この本の面白いところは、時代背景が詳細に語られることだ。19世紀の世界情勢から始まり、当時の日本の様子(飢饉があり、打ち壊しがあり、天保の改革の失敗などなど)。合わせて見てきたような江戸の町と庶民の暮らしぶりなど。これは対象読者が外国人であるためで、すでに中・韓・独・露など多言語に翻訳されている。

 さて、常野は兄を始め縁者からなんども帰郷を勧められたが、頑として応じず、遂には江戸に出てきていた同郷の者と世帯を持った。これでやっと落ち着くと安堵した身内であったが、厳しい社会状況は夫婦の亀裂をもたらし、またまた破局、とうとう帰郷することになった。五年ぶりの故郷であった。

 帰郷から一年ばかりが過ぎた頃、江戸の前夫から再縁の申し込みがきた。安定した働き口を見つけたというのである。あの南町奉行遠山金四郎宅での奉公である。兄は大反対であったが、実家との関わりを一切断つという条件で認めてくれた。今回の旅立ちは見送りもあり、ひそかに抜け出た前とは違っていた。

 江戸に着いてから七年、夫に看取られて常野の生涯は終わった。49歳であった。1853年、アメリカ艦隊ペリー一行が浦賀沖に現れる少し前であった。

 常野の選んだ生き方は、決して褒められるものではないが、厳しい身分制度と強い因習の時代に、自分の意志で生き方を選んだというのは、とても興味深いことであり、詳細な書きぶりとともに読ませられた一冊であった。

 伝えられた話によれば、我が家の父方の曽祖父も、幕末に江戸での学問を志し、田舎を出奔したという。何者にもならず、天秤棒に書物をくくりつけて帰郷したといい、古びた天秤棒が残っていた。息子の祖父は、親の勝手な所業で大層苦労をして、子の父たちの学問を認めなかったとも聞いている。せめて常野のようにたくさんの便りでもあれば、面白かったのにと残念に思う無責任な子孫である。

 

 

                 まづはじめ土の匂ひや驟雨来る

 

 

青柿