雷雨

『日本蒙昧前史 第二部』 磯﨑 憲一郎著

 時代は第一部と重なる1972年から1973年の話である。

 語られるのは日中国交回復とその返礼としてのパンダ騒動、当時の人気テレビドラマ「二丁目三番地」と主演の石坂浩二浅丘ルリ子の結婚に纏わる話、そして第一次石油危機である。

 当方は二十代後半、勤めと子育てと大奮闘の日々で、パンダもスタアの結婚も興味はなく、ほとんど記憶にない。ただ石油ショックは暮らしに直接係ることでもあり、多少の記憶が残る。

 それは、ご近所のスタンドでも、お得意さんでないからと売り惜しみをされた苦い思い出や、留守番の母がトイレ紙を大量に買い込んでいて驚いたということだ。

 さて、このシリーズ第二部は、真ん中の石坂・浅丘についてのどうでもいい話が長く、正直に言えば退屈であったが、石油危機の件については初めて知ったこともあり、読み応えもあった。

 73年10月第四次中東戦争が勃発、ペルシャ湾岸6ヶ国が「石油戦略の発動」をしたことからすべては始まった。ほとんど中東からの石油に頼っていた日本は、たった四日分という国家備蓄しかない現実を突きつけられて、国中が青ざめた。

 電力の節約やら物品の買いだめやらてんやわんやの大騒ぎの中で、政府のとった選択がスゴイ。なんとアメリカに反旗を翻しイスラエルを批判、中東寄りの姿勢を示したのである。

「それは・・・太平洋戦争から今日に至るまでの七十八年の間で、たった一度だけ発せられた、アメリカへの従属に日本があからさまに逆らう内容の、公的告示ともなった」と。

 そんなこともあったのだなあ。そういえばこの本を読みながら、傍らに岩波ブックレット『昭和・平成史』を置いてみていたのだが、こんな項目もあった。

「1972年12月第33回総選挙 社会党復調・共産党躍進。1973年10月6大市長、全て革新となる。1974年7月第10回参院選保革伯仲。」

 まだまだ政治にも期待する熱い時代だったのだ。そういえば、冒頭で筆者もこんなことを書いていた。

「半世紀もの長い時間が過ぎ去った後で、自分たちの生きているこの日常がまさか栄光と恩寵に満ち満ちた、近世もっとも幸福な時代として回顧されることになろうなどとは・・・」

 先の『昭和・平成史』にもあり。「1973年5月 閣議、景気過熱抑制のため ’73年度公共事業の大幅繰延べを了承」と。

 

    

 

 

 

        雷雨去り鴉は羽をつくろいぬ

 

 

 二日つづきの激しい雷雨。蒸し暑いが大気はまだ安定せぬ。洪水の東北地方は本当にお気の毒だ。大降りの間、鴉はどこに避難していたのか。雨が上がったら、ビルの上で悠然と羽繕いをしていた。

 

夏休み

『親子の時間』庄野潤三小説撰集  岡崎武志

 岡武さんによる庄野潤三アンソロジーである。「私は庄野一家の子どもになりたかったのだ。」という庄野愛に溢れた「あとがき」いい。岡武さんは庄野親子が台所でお湯が沸くまでの時間を共有している場面から、自分の父親の不在を思い、改めてとめどなく涙を流したとある。

 生田の丘の一軒家を舞台にしたこの一家の話には、ともかくも懐かしい。私も惹かれたが、尤も私がはまったのは八十年代。子どもたちは大人になり、お孫さんも登場する頃ではなかったか。こういう家庭にしたいと憧れ、真似をした記憶もある。何冊も続けて読んでいるうちに、ややマンネリが気になってきて、すっかり遠ざかってしまったのだが、岡武さんがファンだと知って、嬉しく思い出したのは最近だ。

 夏葉社の写真集『山の上の家』でちょっと触れたのは2022/8/11。この本もたまたま夏葉社の本を探していて見つけた。

 この本を読んで、思いやりに溢れた普通の家族、これがほんとうの幸せだと気づけば、少子化問題も解決しそうな気がするのだが。岡武さんは、『夕べの雲』を誰か映画化してくれないかなあと、ブログで書いておられたが、少子化対策になるかも知れぬ。いやいや問題はそんなに単純ではないか。結婚はしたくない、たとえ結婚しても子どもは欲しくないという人が相当数という現実は、トシヨリにはわからない。

 

 

         肋木の影くつきりと夏休み

 

 

 

 

 

名古屋場所

『ミチノオク』 佐伯 一麦著

 佐伯一麦さんの文章が好きだ。この本は東北の各地を訪ねて、自身の思い出や土地に纏わる伝承などを書き綴ったものだが、当方にとっては、訪れた所もそうでない所もあり、時には懐かしく、時には興味深く読ませられた。

 中でもしみじみと感じ入ったのは「会津磐梯山」と「月山道」の二章。

 ひとつめは、父親を亡くして会津に転校していったという小学時代の友達に思いを馳せながら、一方で平安の昔に「ミチノオク」にまで伝わってきた仏教の足跡を辿る話。

 今、古い記録を出せば、会津勝常寺に国宝仏を訪ねたのは、三十年も昔になる。近くの堂守らしき女性に薬師堂の鍵を開けてもらい、ひっそりとした暗がりで拝顔した堂々とした体躯を思い出す。「ミチノオク」にかくのごとき見事な平安初期仏があるというのは、ひとえに南都で仏教を学んだ徳一が、東北の地に移り住み、活躍したおかげらしい。

 佐伯さんは徳一の慧日寺を訪れた思いを中心に書いておられるが、今や山門と金堂、そして御本尊も復元されたというお寺は、当時は徳一の墓所のほか、これといってないように思い、行程から外したことが悔やまれる。

 御本尊の薬師如来を、東京芸大が中心となり、で五年がかりで制作する過程がネット挙げられていたが、なかなか見応えがあった。一面に金箔を押した後、たわしなどでこすり落として経年変化を加えるのである。「古色美」というこの国の美意識に叶うようにということらしい。

 ふたつめの「月山道」は、3・11後も何回かの地震で傷んだ自宅の排水管工事中、工事避難で酒田を訪れる話である。

 「月山道」のトンネルを抜けながら、三十年近く前、同じ道を自殺未遂した身を連れ合いの車で運ばれていたのを思い出す。その時親身になって診察してくれた高校時代の友人のAの話。何年ぶりかの電話に驚けば、膵臓癌の末期で、見舞いも拒否し、もう長くないと言うのだ。

 上記の二箇所のほか、取り上げられた土地は「西馬音内」「貞山堀」「飛島」「大年寺山」「黄金山」「苗代島」「遠野郷」。

 東北はゆかしいなあ。象潟の苗代島と遠野郷は、出来たら行きたいなあと、あてもないのに地図を拡げた。

 

 

         名古屋場所砂べつとりと太鼓腹

 

 

 

 連れ合いの「小玉西瓜」。今年はすでに6つ収穫。近年にない順調成育で、ほくほくである。

 

 

冷房

『別れを告げない』 ハン・ガン著 斎藤真理子訳

 最近になく、息も継げぬような緊迫感を感じながら読んだ本であった。

作家のキョンハは四年前、ある都市で起きた虐殺に関する本を出してから、悪夢にさいなまれていた。その夢のひとつ、海岸に林立する黒い墓標のような木々を波がさらっていく夢から、彼女は親しい友人のインソンに「九十九本の黒い木を植える」プロジェクトを持ちかける。そのブロセスを記録映画にしたらどうかと提案されて、映像作家でもあるインソンは快諾。しかし、会うタイミングがなまま、月日が過ぎていた。

 インソンは母親の介護のために故郷の済州島に帰り、母亡き後はそこで木工仕事に励んでいた。距離が離れて、間柄も広がっていた彼女からある日、四年ぶりに連絡が入る。

「すぐ来てくれる」というのだ。それも初めて聞く病院へ。木工作業の最中に指を切断したインソンは傷口に針を刺して刺激を続けるという壮絶な治療を受けていた。家に残してきた鳥を助けるために、島に行って欲しいと頼まれたキョンハは、大雪の済州島に渡る。

 刻々と降り続く雪と行き惑うキョンハの思いの描写が緊迫した筆致で描かれる。

 やっと辿り着いた開け放されたままのインソンの小屋。大怪我の跡も生々しい作業場にはキョンハとの約束を思わせる丸太もあった。が、肝心な鳥は既に息絶えていた。

 大雪のせいで停電と断水に見舞われた極寒の部屋の中で、キョンハはインソンの衣服にくるまれながら、幻影とも夢とも言える不思議な体験をする。それは霊魂かもしれぬインソンが語る島の歴史、彼女の母の歴史であった。

 済州島四・三事件については多少は知っていたが、これほど酸鼻な出来事であったとは、今更ながら驚くしかない。戦争が多くの死者を生むのは今も現実なのだが、この事件は同胞が同胞を殺戮した、怒りのやり場すらない出来事であった。筆者はこの悲惨さをインソンの口を借りて告発する。

 命の瀬戸際でもキョンハを信じ、深々と語りかけるインソンと、命の瀬戸際でインソンの思いを受け止めようとするキョンハ。この話は、二人の愛の物語でもある。

 筆者ハン・ガンはノーベル文学賞候補と言われているらしいが納得できる。久しぶりに集中して読めた話であった。

 

 

      冷房や黙して夫(つま)とひとつ部屋

 

  あまりに暑い午後は冷房室にひきこもり。夫は読書の当方に遠慮して、イヤホンで野球中継である。

 恒例となった発熱の今年二回目で、二日間寝込む。原因はいつものように不明だが、友人に言わせれば、「ブレーキのようなもの」かもしれぬ。まだ本調子とはいかず、ボチボチだ。

久しぶりに散歩中に見たネコちゃん。牢名主のようにお高いところで昼寝中。

出水

上林暁 傑作随筆集 故郷の本箱』上林暁著 山本善行

 美しい夏葉社の本である。同じ作家の「傑作小説集」は先に読んでおり(2021・2・18)、同じようにTの書架から拝借した。二冊同時に取り寄せたものらしく、山本さんの手書きの小さなお礼書きがはさんであった。

 一般的エッセイ、本や古本に関するもの、友人知人の追悼文、小説家としての気持ちや姿勢に触れたものと四部構成だが、どれも筆者の温かな人柄が感じられる心地よい読後感だ。

 一番最初の「高根の花」は、貧乏学生だった頃の思い出。親しくしていた友人に誘われて、何人かの貧乏学生が女学校のバザァに出かける。美しい姉妹と一緒にひとときを過ごしたその夜、夢のような華やかなひとときを思い出して、彼らは号泣したという。田舎から出てきた貧乏学生の純情さに胸が熱くなる話ではないか。

 二つ目の「幼な友達」もいい。筆者よりひとつ年下の幼な友達クマオ。貧乏で学校もろくに行かず、力仕事で生計を立ててきた。何十年も経て、同じ脳出血を病んだと知って訪ねていく。将棋がめっぽう強いと聞いて、初めてさすことになったのだが、筆者は完敗してしまう。「幼友達じゃけんのう」とうれしそうなクマオ。「明日もまた来なよ」という声音に、子供の頃の夕方の約束を思い出すのだ。これも、筆者の優しい眼差しの感じられる一遍だ。

 二部の古本屋めぐりの楽しみで、「児島虎次郎遺作展覧会目録」を手に入れた喜びが書かれていた。児島虎次郎には大原美術館で出逢い、当方もとても惹かれて、今に思えば図録を買ってくればよかった。高梁市に美術館があるというので、そのうち行きたいところが、また一つできた。

 

 

      真菰草なぎ倒されて出水あと

 

 

 

 雨が続いた二日ほど前に洗濯物を乾かしたいと除湿機を出したばかりだが、とたんに梅雨明けのような天気になった。朝から猛烈な暑さで、この先が思いやられる。

 図書館の出口で珍しいものに遭遇した。コクワガタである。どこへ向かうつもりなのかよちよちと一生懸命だったのを写真に収めた。

半夏生

『忘れられた日本人』 宮本 常一著

 NHK「100分で名著」に取り上げられていたので、再読を思い立ちTの書棚から出してもらう。

 この本で宮本さんは正史に残らない名もない庶民の歴史を残したかったそうだ。確かにここには一昔前の庶民の暮らしぶりが息づいている。

 歳を重ねただけ、どの話も初読の時より心に響いたのだが、「私の祖父」と題した宮本さん自身の祖父の話が一番良かった。借財に追われた暮らしだったが、篤実に「自分に納得のいく生き方」を生涯通した人だったようだ。周りのちいさな生き物たちにも慈悲の心を持ち、孫の常一さんにもつねづね語って聞かせたことが、かの人の感受性を育てたとも言える。八十すぎまで働きつづけて、夜は好きな民謡を唄うのを一番の楽しみにして、ぽっくりと亡くなった。

死後に翁の葬式代を預かっていたという隣人がやってきたのだが、彼は昔、常一さんの家を焼いた青年だったという。祖父は彼のめんどうをよくみて、後年にはいい相談相手にしていたというのだった。

 「生涯がまるで民話のような人だった」というむすびを読んで、私は目頭があつくなった。「昔は普通の人に立派な人がいた」と中井久夫さんはおっしゃっていたらしいが、この人もそうにちがいない。

 この本を読むと物は溢れて暮らしは豊かになったようだが、失ったものも大きかったと今更ながら思わずにはいられない。宮本さんが聞き書きに歩いたのは、先の戦争前後、父母の時代である。たまたま今日の新聞の投書欄に「身近な人へのインタビュー ぜひ」とあったが、我々の時代はともかく、父母には聞いておけばよかったと思うことだ。

 

 

       雨に寝て雨に目覚めて半夏生

 

 

  明日7月1日は今年の「半夏生」。夏至から数えて11日目。田植えを終えた田んぼから田の神様が天に上っていく日で、この日は雨の方が吉とも。

 

紫君子蘭

夏燕

『愛についてのデッサン』 野呂邦暢著 岡崎武志

 40年も前に書かれた短編集の文庫化である。今になって文庫化されたというのも、根強い人気のせいとオカタケさんの野呂愛の賜物に違いない。オカタケさんは野呂さんの文章を「山裾からほとばしる清冽な水」と讃えたが、確かに読ませる文章だ。

 『愛についてのデッサン』は、若い古本屋店主佐古啓介の周辺に起きた出来事を描いたものだが、全部で6編あり、特に面白く読んだのは「佐古啓介の旅(一)と(六)」である。どちらも謎解きの要素があり、それが読ませる原動力にもなった。

 「佐古啓介の旅(六)鶴」は、亡くなった父の過去を探る旅の話である。啓介の父は東京で古本屋を営んで一生を終えたのであるが、若い頃上京して以来故郷長崎へは一度も帰郷もしなかったし、話題にも載せなかった。父はなぜ故郷を捨てたのか。たまたま父の古い友人の蔵書整理で、父の若い日の歌集を贈られた佐古は、それを手がかりに父の足跡を辿る。

 長崎で佐古が知ったのは若い日の父の姿、短歌会に名を借りたささやかな反戦活動やら、同人の女性との交際、実の兄にフィアンセを獲られ失意のうちに上京、その後の原爆投下と実家の消滅。

 短い話の中に過去と現在の時の流れ、ひとりの若者の恋と喪失を描ききだした心憎い構成であった。

 「佐古啓介の旅(一)燃える薔薇」はさらにミステリアスな要素が加わるが、ここでは触れない。このシリーズでは文中に様々な詩が引用されるが、これらが登場人物たちの輪郭を、より確かなものにしていると思った。 

 

 

      飛び交うて卯建(うだつ)の町の夏燕

 

 

  昨日の外出の名残である。呻吟してもいい句はできないのである。

 飛び交う燕は撮れなくて残念。