田植

講演会「坊の塚古墳の前後」を聴く  西村 勝広講師

 トシヨリの興味は、未来より過去。旅の疲れもあるが、市の歴史研究会主催の講演会にでかける。 

 「坊の塚古墳」は4C後半築造の前方後円墳である。前にも書いたが、市内では最大、県下でも二番目の大きさを誇る。(全長120m)。三段築成で、円筒埴輪列を有する。また墳丘祭祀に壺型土器を用い、滑石模造品の副葬が認められる。前者は中央政権のスタイルを真似、後者は在地のスタイルだとレジメにある。

 「坊の塚古墳」の話もさることながら、今回興味を引いたのはあたしンちの足元に係る話である。昔、うちの畑を見回っていた研究者の人から、「この辺りは弥生集落でしてね」と言われた。今回も資料で、それが確認できたのだ。

 古い木曽川が作った肥沃な沖積低地と豊富な農業用水、洪水のリスクのすくない土地で、早くから弥生文化が伝播したらしい。

 当地より2Kほど東の「宮塚遺跡」は、美濃地方でも最も古い弥生遺跡で、「遠賀川系土器」が出ている。北部九州からの稲作伝播の痕跡で、一方縄文系の土器もあることからここで混在が始まりわれらはその末裔かもしれぬ。

 昔の研究者によれば、昭和のはじめには市内には700ばかりの古墳があったようだが、現在では120から130ほどで、多くは市の中心を占める各務原台地の周辺部に点在する。大別すると4箇所にまとめられ、うちの辺りは大きなかたまりの一つだ。

 先日(5月2日)写真を載せた琴塚古墳(県下3位の前方後円墳)を中心としたかたまりで、古墳時代の中期から後期、坊の塚古墳より遅い築造である。昔の木曽川の流れを臨む微高地にあり、坊の塚古墳同様、土地の権力者の力を示す拠り所だったようだ。

 あとは「東山道」の話である。部落の細道が、東山道だと聞かされていたが、それは旧東山道であった。701年大宝律令制で出来た「東山道」は、各務原台地を横切る、より直線的道路だったことが、わかった。前回の講演でも聞いた渡来系土木集団により整備されたらしい。彼ら入植者がたくさんの群衆墓を築いたことは、先の講演で聞いたことである。

 

 古墳に興味を持つ人は多いようで、昨日の講演会も盛況であった。出かけるのが遅くて後ろの方の席になったのだが、すぐ後ろのオバチャンたちの私語に閉口、昔の教師癖でまたまたシーとやってしまった。隣の男性が小声で助け船を出してくれ、まずまず。

 

 帰りてUnextで『先生と迷い猫』を観る。何ということもないほのぼの系映画。イッセー尾形主演。彼のユーモアとペーソスある校長先生像がいい。最近、支障のないものは、三回ぐらいに分けて観ている。

 

 

        甲斐駒は白きを残し田植かな

 

 

 井戸尻の高原地帯はもう田植が進んでいた。あのような高地にも水田栽培を始めた先人たちの苦労を思う。当地は弥生時代に真っ先に稲作を始めたのに、今や隔年しか作らず、草地が目立つのはどういうものだろう。