春闌くる

講演会「江戸時代に破壊された各務野の古墳 」を聴く

               各務原市歴史民俗資料館 長谷健生さん

 市の歴史講演会に出かける。今回はとても興味深い古墳の話である。驚いたことには市域には605基の古墳があるという。(平成二年『岐阜県遺跡地図』)もちろん小さな円墳や方墳を含めた数であると思うが、墳長が岐阜県2位の前方後円墳(坊の塚古墳)もある。

 さて、昨日の講演で取り上げられたのは、江戸時代に破壊された古墳に付いての話である。当時の記録から伝承された内容の一部を要約すれば、

「寛政十一年(1799)秋、美濃国各務野の古塚約二百基を暴いた。曲玉五百ばかり、紫水晶、いろいろの瑪瑙、白銅の鈴になった曲玉、管玉、珊瑚のような緋瑪瑙、石臼、単鳳環頭太刀二振、刀剣数十振、斧、鉄の鏃数百、小札(鎧部品)馬具の一部、鏡数十面(鈴つきもあり)、鼎(須恵器か)、砥石(龍の刻印あるものもあり)」

 二百基も一度に暴かれた理由はわからないが、古地図によれが、古墳は田畑の間に塚として点在、農地転用などの目的があったのかもしれぬ。それにしても今なら大ニュースになるお宝である。

 いやいや、当時でも大ニュースは各地に伝わり、あちらこちらで書物に転記され、いわば「バズったのである」と長谷さん。有名どころでは、寛政十二年に松平定信が編纂した『集古十種』にも、この出土品に触れた箇所がある。

 このすごいお宝が、どうなってしまったか。先の伝承によれが、ガラス玉などは一向宗門徒に数珠の素材として売られ、太刀や馬具、鼎などは特定の武士や富豪に売られたようだ。大半を手にしたのは加納に住むある富豪だったが、後年零落したので、古物商に売出して散逸してしまった。バズった時に書とめられたスケッチがあるので、いくつかの実際のおもかげが、今でも少しわかるのは幸いだ。

 さて、気になるのは、これらの古墳の被葬者である。出土物から考察すると、時代は5世紀なかごろ(倭の五王のころか?)腰に下げる砥石や馬具がでたことから、渡来人ではないかと推測されている。各務原台地の大草原は馬の放牧に適していたかもしれない。

 

 いずれにしてもわが家のあたりを含めて、古代より住みやすい土地であったことは間違いない。現在の行政区は違うが、わが家から500メートル先には県下第三位の前方後円墳(琴塚古墳)があり、子供の頃の遊び場だった土山には、いくつもの円墳があった。みんな宅地造成で壊されてしまった。小学生の時は、担任の先生の影響で鏃さがしに夢中にもなった。昨日も聞いたのだが、雨上がりの畑で見つかる確立が高かった。男子の中には、かなり拾った子があったように記憶する。今のように耕運機やトラクターで深堀りしては、もう駄目だろうな。小学校の資料室には、当時の発掘史料もあったはずだが、今はどうなのだろう。因みに小・中学校の校章は曲玉のデザインだ。

 

 

      鋤きかえし播きかえしては春闌くる

 

 

我らこの地に生きた古代人の末裔という感傷にて

シャクヤクが咲き始めた。