植田

蒲生野と近江八幡

 「こころ旅」を見ていて、近江行きを思い立つ。近江は何度も訪れてはいるが、まだまだ見たいところは多い。今回は「近江の国宝建築巡り」と称してプランをつくる。

 まずは名神高速の蒲生ICで下りて苗村神社へ。延喜式神名帳にも名のある古い神社である。

道路を隔て西と東に分かれており、西本殿が国宝、東本殿が重文である。もともとの産土神は東に鎮座されている由。ナムラとはもとはアナムラで日本書紀新羅アメノヒボコ伝承と関係があるという。かってこの地方に多く移り住んだという渡来系の人々の祖神であろうか。西本殿の御祀神は勧請した神である。

 

重文の楼門。 室町期のもの

門前の神田

伝承の雨乞いの掛け声という

神輿収蔵庫 重文

奥に国宝の本殿 鎌倉期

東本殿への参道 周りに円墳が何基かあり。

東本殿 重文

 

       弓削、鏡ゆかしき地名植田澄む

 

近江平野は、すでに田植えがすんで水を張った水田が美しい。一方青々と風になびく麦畑も見られる。「弓削」「鏡」葛巻」と地名がゆかしい。

 次は大笹原神社。思ったより小さな神社で、場所を特定するのに苦労する。緑の森に沈んだような静かな神社である。本殿が国宝(室町期)、御祀神はスサノオノミコト。おそらく摂社のイシコリドメがもともとの祀神ではなかっただろうかと、推理する。イシコリドメは鏡造りの祖であり、例のヤタノカガミのを造った神で、この辺り鏡の里の祖神である。

大笹原神社参道

 本殿 国宝

 境内にちいさな沼あり。寄倍(よるべ)の池といわれている底なし沼らしい。昔日照りが続いて雨乞いのためこの池に神輿を沈めたという。以来池の水は涸れたことがないと伝わる。どんよりした沼で、蛙のようなものがしきりに鳴いていた。

 

        老鶯や沼の静まる神の森

 

 次は野洲市「民俗歴史博物館(銅鐸博物館)である。野洲市では銅鐸がたくさん出ており、一度見たいと思っていた。博物館の説明によれば、発掘されたのは24個。明治14年に14個と昭和37年に10個である。すべてこの地の大岩山で見つかったという。日本最大級の大きさの銅鐸も出たというが、館内展示は小型のものが一部だけで、復元品が多い。

 敷地内に移築した復元古墳あり。大岩山古墳群のひとつで、7世紀のものらしい。

 これで午前中の予定終了。近江八幡に戻り昼にする。いつものように蕎麦にしたが、座敷しかない店で座るのが不便な身としてはちょっと辛かった。

 さて、近江八幡は、ほどほどに古き日本が残った味わいのある街だ。以下は観光案内。

新町通り

八幡堀

かつての学校

日牟禮八幡宮 たぶん「八幡」の名前の由来になった神社

日差しも暑くなり、結構歩き回って疲れる。本当はまだ廻る予定の国宝建築があったのだが、もうぐったり。「いつも詰め込みすぎ」と連れ合いの意見。近いからまた来ればいいということになる。早々と帰宅の途について4時半ごろ帰宅。頃合いだったという気もした。

 

        堀端に絵筆とる人あやめ草 

 

 

 

みどり

『スットン経』 諏訪 哲史著

 「ちっとも読めない」と愚痴っていたら、古友達が「面白かったよ」と薦めてくれた一冊。連休があったり、気がのらなかったりと何日もかかって読了。たまにはなにか書かないとお客さんが皆無になりそうで、意味もない感想を少し。

 諏訪さんは芥川作家だがこてこての名古屋人。以前朝日新聞名古屋弁のバアサンたちの話に大笑いした記憶がある。(ちゃんと『アサッテの人』も読んでます)このエッセイ集も中日新聞毎日新聞・東海版に掲載中のもので、昨秋までのまとめらしい。

 話は、諏訪さん自身が躁鬱病と公言しておられる病の辛さに触れたもの、名古屋弁やらローカルな話題、不寛容な差別な社会や地球温暖化改憲への悲憤、旅や文学、音楽、映画など趣味の愉しみなどなど、なんかしゃんいろいろ。(そらあ、エッセイやもんね)

 読んでみると、どえりゃあ真面目な人やなあとめちゃんこ思う。

 だけど、この点だけはちょこっと家族と話し合った。誰が憲法を書き換えるかのくだり。「銃口を向けられても、銃口を向け返さない」「自衛というのは、終わりなき復讐合戦」というところだ。これが書かれたのは2018年当時、まだ理不尽なロシアの侵略はなかった。今のウクライナの現実で、「銃口を突きつけられても銃口を向け返さない」従容と死を選ぶのが人間らしいとは、私としては認め難い。自分自身はともかく身近な人々の命は守りたい。こんなことを言ってると改憲派に取り込まれそうだなあと、平和主義者と思っていた自信は辛くも揺らぐが。

 

 連休中は娘一家が来たり、落語を聞きにいったり、庭仕事に精を出したりして過ごした。世の中が働き始めたので、今日は近江辺りに出かけようと思ったのに、あいにくの天気である。どうもお天気に好かれていない。天気図は早くも「走り梅雨」の様相、風香る五月はだんだん短くなるのかしらん。

 今年はお隣のモチの大木で鵙の子育て進行中。子もずがうちの枇杷の木にもやってきた。親がずっと警戒の鳴き声をたてている。

 

 

 

         野に山にみどりの神の降臨す

 

 

 

芍薬の季節です。

茅花風

散歩中に見つけた亀

桜海老

NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が 立花隆最後の旅』

 この4月30日は立花さんの一周忌に当たるらしく、親交のあったデレクターによる追悼番組である。死の半年後、知の巣窟ともいう「猫ハウス」の書棚が、きれいに空になっていた。それに驚いたところから話は始まる。

 「知の巨人」といわれた立花さんは、生涯をかけて何を知ろうとしていたのか。ある人はそれは「見当識」だという。つまり我々人間はどこからきて、今どこにいて、どこに行こうとしているのか。この問いを追究するために彼は宇宙を対象とし、人間と猿を、生と死を、文明と非文明を対象とした。「ビックバンから始まる歴史を全部書きたい」そう語る姿も紹介されている。

 私は立花さんの本はあまり読んでいないが、「死ぬとき人は何を見るのか。死後の世界はあるのか。」という臨死体験に取材した本はいくつか読んだ。この問いの結論は、この番組でも紹介されているが、それは「死んだ物質は無に帰る、意識みたいなものは全く残らない」というものだ。

 人間は死ぬように運命づけられている。しかし、ここの命は「無に帰る」が、永い命の進化の連続帯の一部として未来に繋がっていく。「命はいくつもの命に支えられて命の連環帯をつくり、命の連続帯の一部として自分がある」。

 墓も戒名もいらない、遺体は塵として捨ててほしいと遺言されたそうだが、自分の命が次の進化の一部になれば本望だということではないかと、番組制作者は語っていた。「超進化」という言葉も出てきたが、「人類全体が一体となって思考する日が来るだろう」と人類の未来に前向きだったのは意外だった。

 

 相変わらず本が読めてない。日曜版の読書欄で知った田尻久子さんの本『橙書店にて』を読んでみた。どんどん人の環ができる人だなあと感心はしたけれど・・・。

 先の「静岡への旅」で買ってきた桜海老で、炊き込みご飯とかき揚げを作った。半干しの海老だったので炊き込みは今一歩だったが、その後スーパーで乾燥桜海老を見つけた。これで作りなおして大正解、香り高いご飯ができた。「桜海老」は晩春の季語と知って一句。

 

 

 

       香ばしさ満ちてご飯の桜海老

 

 

 

カモミール

チャイブ

ミント

ローズマリー

セージ

タイム

パセリ

マジョラム

 

 うちのハーブ畑。この他イタリアンパセリレモンバームあり。連れ合いが作ってくれるのだが、ちっとも利用できていません。


 

春惜しむ

不調の原因判明

 昨年は三回、今年になって二回、突然の高熱と胃腸障害の原因と思われるものが判明した。血液検査の結果、ある病気の初期症状とわかったのだ。またまた厄介なものを抱え込んだという気持ちである。一度大病を患うとストレスで別の病を引きずるということだろうか。ともかく今は処方された薬を飲み、生活習慣に気をつけるしかない。ちょっとだけ飲んでいたワインもきっぱりとやめたが、これは淋しい。

 鬱々と晴れぬ気持ちで昨日は古友達と電話で話した。彼女も難治の皮膚病で今日にも大きい病院を受診するという。パソコンも調子が悪く、今やトシヨリには如何ともしがたいことが多すぎると嘆いていた。昔二人でつるんでいた頃、お互いに若さゆえの痛みを舐め合っていたが、今や老いの痛みを舐めあっている。

 昨夜来の雨が上がって、緑が眩しい。クロアゲハがふたつほど飛び回っている。ともかく前向きになるしかない。

 

  午後BS映画「ギルバート・グレイプ」を観る。1993年のアメリカ映画。アメリカの田舎町で知的障害の弟と過食症の母を姉妹とみる青年の話。厳しい現実なのに家族への愛を貫く彼がどう救われるのか、最後まで目が離せなかった。感動的で救いのあるエンディングでよかった。障害のある弟を演じたのはレオナルド・ティカプリオ、秀逸な演技であった。

 

 

 

     老いというあがらえぬもの春惜しむ

 

 

 

アッツ桜

アンネのばら

キリシマツツジ

クレマチス

用水に水が入る

猫チャンも暑さを避けて

静岡紀行  一日目

 コロナの収束はおぼつかないが、ワクチンを三回接種したこともあり最大限人密を避けることにして出かける。従って今回は車での移動中心。

 朝8時前に自宅出発。東名高速で、まずは昼食予定の焼津を目指す。途中上郷SAと浜名湖SAで休息。今回の外出は二回目の大手術後の初めての遠出であり、慎重に休み休みである。

浜名湖SA。晴れてはいるが霞んだ景色である。

 吉田IC辺りでこの近くがお宅だというふきのとうさんに想いをはせる。いつもご利用だという吉田の高速バス停留所を捜すが見落としたらしい。大井川を越えて直に焼津。ここまで休息を入れて約三時間。ネットで調べた「小川港魚河岸食堂」でまぐろを食す。さすが静岡、食堂の眼の前には津波退避タワーがある。

 焼津から静岡市へ。まずは、これもふきのとうさんのブログで知った「日本平 夢テラス」。隈研吾の設計らしい。晴れてはいるが全般に霞んでお目当ての富士山はちらっとも見えない。

 運の悪さを嘆きつつロープウエイで「久能山東照宮」に参る。なんでも正面階段は下からだと1300段もあるというから、老人にはとても無理。 楼門からでも残りの階段は相当厳しくて疲れる。権威の象徴か、一段ごとがやけに高い。家康を最初に祀ったという社殿は、日光東照宮と同じくきらびややかで豪華、国宝である。

家康廟で金色の蜥蜴にであった。以前岡崎の東照宮では珍しい玉蟲を見つけたことがあったが、さすが家康公の墓所かなと笑い合う。

 

         蜥蜴さえ金を帯びたる家康廟

 

 

博物館にも足を止めるが、特別なものはなし。甲冑具足やら家康公の日常品など。慶喜公の書は、さすがの筆遣いである。

 まだ日は高く、山から下りて「三保の松原」を目指す。しっかりと管理をされているらしく見事な松が残っている。「羽衣伝説の松」は三代目とか、立派な枝ぶりである。砂丘を踏んで波打ち際近くまで行くが、海越しの富士山はここでも見られず。小さいまんまるの小石をふたつだけ拾って帰る。

羽衣の松

 この後市内の「登呂遺跡」にちょっとだけ寄ってホテルに向かう。

 静岡駅前の新しいホテル(ホテル・オーレ・イン)で気持ちがいい。ホテルに入るなり突然の雷雨で、食事に出かけるのに閉口したが、食事は駿河湾のお魚のお造り、生しらす、桜えびのかき揚げ、黒はんぺんのわさび添えとご当地もので、大いに満足。12668歩を記録する。

 

 

 

       空と海あはひかすみて永久(とわ)の松

 

 

静岡紀行  二日目

 昨夜の雷雨は上がり、やや曇りがちの晴れ。旅の一番の目的、伊豆の願成就院に向かう。拝観時間まで余裕があるので高速でなく一号線を使う。興津、由比、蒲原と東海道の懐かしい地名を辿って行くうちにふいに眼の前に富士山が出現。薄曇りではあるが、白雪を頂いた富士山で、声を挙げて感激する。「道の駅富士」というのを見つけ車を入れる。そこの展望所から撮った富士山。

 しばらくは富士山を見ながらのドライブ(もちろん運転手は除いて)。

 10時すぎ伊豆の国市の「願成就院」に到着。この寺は北条時政(義時の父)発願の寺である。創建当時は毛越寺様式の大伽藍であったようだが、二度の火災を経て今はこじんまりとした真言宗のお寺である。創建当時からの運慶作の仏像が素晴らしい。阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王像、こんから童子像、せいたか童子像の国宝五体である。中でも阿弥陀如来の柔和なお顔が何とも素晴らしい。寺内には時政公のお墓もある。伊豆の一地方武士集団が、都の仏師を招いてここまでの寺を建立したその心意気を思う。

庭でモリアオガエルが鳴いていた

北条時政の墓

 

       若武者に似たる毘沙門若葉風

 

 

 三島は以前来たこともあり、柿田川にも寄らず楽寿園そばの蕎麦屋さんで昼食、一路帰宅を目指す。帰りは新東名高速を利用。途中から雨になったが約4時間で帰宅。

 熱が出ないところを見れば、まずまずの旅であった。

 

仔猫

『ねこのほそみち』 堀本 裕樹・ねこまき著

 たわいない本をとお笑いめさるな。実に楽しい本でした。右ページに猫の俳句と堀本さんの鑑賞文。左ページにねこまきさんの猫マンガ。絶妙な取り合わせで夢中でページを繰りました。全部で89句。龍太さんもあれば、楸邨さんの句もあり。一茶も永田耕衣さんも。ねこまきさんのイラストの猫たちが実にいきいきしてこれ又良し。言葉で説明しても可愛さは伝わらないので、図書館にでもあれば、ぜひ手にとってください。

 猫って愛されてきたのですね。犬の俳句はここまではないでしょう。拙句にも猫の句はあります。ちょっと自慢めきますが、新聞俳壇にとられた自信作の一句。

  殺生をやめられぬ猫蜥蜴出づ

今頃蜥蜴が出だすと、必ず捕獲して見せに来てはいたぶっていました。そんなに殺生したら後生はよくないよと諭しても、効き目なしでしたね。

 今日の掲載句も先に載せたことがありますが、あるお宅を訪問したときの体験。「仔猫」ですから晩春です。

 

 

 

     一匹ぐらいどうぞと仔猫抱かされる

 

 

 

いつもの猫チャンたち

今年は緋牡丹が九花、薄桃が五花。ちょっと咲きすぎです。

 

春闌くる

時宗の決断』 永井 路子他著

 本が読めない。いろいろ摘まんではみるのだが、こういう時代に架空の人物の気ままな情緒に付き合っているのが嫌になって放り出す、というのを繰り返している。幸いこの時期はしなければいけないことがいろいろで(例えば庭仕事、冬物の片付け)、何となく日は過ぎていく。昨日、旧友からの電話で刺激されたこともあり、とりあえず久しぶりのブログである。

 昨日の新聞によれば、「鎌倉時代に興味はありますか」というアンケートに62%の人が「ある」と答えていた。こちらも大河つながりでちょっとは読んだり調べたりしてみたのだが、なかなか頭に入ってこない。まず同じような名前が多すぎる。執権にしろ、どなたが親で誰が子でと混乱。ややこしい統治機構もわかったようなわからないような。

 さて時宗は蒙古襲来時の執権である。まだ若い。文永の役当時が24歳、弘安の役で31歳、行年34歳で、蒙古襲来に終始したような生涯であった。もっともこの本の網野さんなどは、彼への評価は低い。神風は吹いたとか吹かなかったとか。7月の襲来の弘安はともかく、文永は11月でもあり、台風ではないらしい。蒙古軍は一夜で失せたが、被害の甚大さは言うまでもなく、対馬壱岐の人々は皆殺しにあった。さらに幕府は奮戦した御家人たちに充分な恩賞も手当できず、この後北条執権政治は瓦解への道を下り始める。

 内部抗争に明け暮れた初期有力御家人たちは、結局北条一門以外多くは滅んでしまうのであるが、この時代まで安達氏が生き残っていたのは意外であった。あの頼朝側近の安達盛長の一族である。曾孫に当たる泰盛は時宗を助けて国難に奮戦するのだが、それもこの時代までで、次の執権貞時の時に討たれるのである。(霜月騒動)誠に「おごれるものは久しかず」。

 面白味を交えてあるが、大河ドラマも凄惨な話が続きすぎてちょっと重い。

 

さて、ワクチンはしっかり打ったので、来週は家族でちょっと出かけるつもり。北条氏ゆかりの寺へ。

 

 

 

     終息も収束もなく春闌くる

 

 

 

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芝桜

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満天星

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牡丹 今年はたくさん咲きました。