春祭

『硝子戸のうちそと』  半藤 末利子著

 何かで薦められていたのでたくさんの予約の果に借りてきた。茶飲み話、世間話のようなものだが、漱石のお孫さん、半藤一利夫人の世間話である。随分ぶっちゃけた物言いの人だなあというのが一番の感想だ。

 最後の方に半藤さんの最期の話がある。半藤さんと言えば、『昭和史 戦後編』がとても面白かった記憶がある。自分の来し方にひきつけて読めたからだ。つまり戦後史の節目節目にワタクシの人生の節目節目が重なって、とても興味深かった。

 その半藤さんが転倒の果に大腿骨骨折、手術でうまく治らずに再手術、リハビリ、他の病気の併発と、だんだん弱って、亡くなるまでが書かれている。それが実に恬淡とした書きっぷりで驚いた。長年連れ添ったご夫婦だからこういうものかもしれないと、そんなことも考えた。

 

 昼前にリュックを背負って買い物にでかける。ほんの近くである。「おや。散歩?暑くなりそうだから気をつけて。飲み物もってる?」ご近所さんの奥さんが声をかけてくださる。お店の人も「歩いてですか?お気をつけてね。」とやさしい。親切はありがたいが、よほどおぼつかないトシヨリに見えるかと、連れ合いに嘆いたら、「おう、バアサンに見える見える」と嬉しそうに念を押すではないか、がっくりと疲れた。

 

 

 

 

     朝(あした)より花火あがりて春祭

 

 

 

 

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さくら散る

『俳句と人間』 長谷川 櫂著

 春は、なんとなく感傷的な気分になる。時のうつろいがあまりにも早いせいかもしれぬ。三日ばかり又体調不調で寝込んでいたうちに、紅梅は無残に色褪せて散り、桜も木蓮も満開になった。満開の嬉しさに浸るより、いずれもあと二三日もすれば散り始めるにちがいないと、淋しさが先立つ。

 一時期著者の結社に入り、末席ながら何度か句会に同席した身である。結社で競うことがどうでもよくなって、すっかりご無沙汰をしてしまっていた。毎週の新聞俳壇の選句で、お元気だとばかり思っていたが、癌を患っておられたとは知らなかった。それもちょうど当方と同じ時期ではないか。

 この本は、皮膚癌を患い何度かの手術をまたぎながら、人の死や人生、不条理な現実世界などについて書かれた俳句エッセイという体裁のものである。あとがきに

「俳句の話を縦糸にして話題は生と死、天国と地獄、民主主義の挫折、時代精神の変遷、身辺雑事に及ぶ。」とある。

 俳句に導かれるように取り上がられる話題はあちこちに跳ぶが、底流には重い諦念があるように感じる。それは病だからというではなく、人の愚かしさへの絶望。さらに執筆当時にはなかった戦争も加わった。思いはさらに深まったにちがいない。

 詩歌を造るということは「万物の声なき声に耳を澄まして言葉にする」「祈り、寄り添う」これが詩歌を詠む姿勢だと断言する。厳しい局面で詠まれた詩歌こそ、一層心に響く。「人間は宇宙の唯一の意識」である。「一人の命の限界を超えて未来に伝えるために」「文学の淵源」もそこにあるというのだ。

 いくつかの話題のうち、私的には「芭蕉の晩年の苦しみ」について書かれた話が興味深かった。軽みを選んだゆえに軽みに徹しきれずに失望のうちに亡くなったという話だ。

 

 

 

 

         もふ元に戻らぬ世界さくら散る

 

 

 

 

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 この世は美しい。うちの庭は、雑然としてはいるが、春は「極楽浄土」だと勝手に妄想する。昨日は桜の名所にも出かけたが、やっぱりうちの花を。

 

春うれひ

『北条氏と鎌倉幕府』 細川 重男著

 「鎌倉殿と13人」を見ている。おぼろげにしか知らぬ歴史を、おさらいしようと借りてくる。

 読めば読むほど凄惨な時代である。結局頼朝の兄弟やら子はみな悲惨な死を遂げ、頼朝の家系は断絶。合議制のメンバーたちも何人かが誅伐される。この暗さを一体三谷さんはどう描くのだろう。

 さて、この本のメインテーマは「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか」ということで、義時後の時代、時宗についても話は続く。

 

 一昨日、二年ぶりに旧友に会った。高校以来の古友達である。「四十の大台を超えた」とか「とうとう還暦か」と言い合ってきたのに、今や「残りは十年」と言い交わす歳になってしまった。彼女の車に同乗して木曽川堤の桜を見てきた。早咲きの避寒桜や枝垂れ桜がすでに咲き誇っていた。彼女は去年まで共に愛でた人を失い、「様々なこと思い出す桜」であったことだろう。

 

 

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 「早足で歩くと脳内の血流が盛んになって気分が好転する」と本で読み、かかりつけ医まで往復3・5キロ。いつもより早足を心がけた。午後は図書館に予約本を受け取りにバスで。一日で8000歩である。さすがに昨夜はよく眠れた。

 

 

 

       早足で歩き吹つ切る春うれひ

 

 

 

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三月

『根に帰る落葉は』 南木 佳士著

 久しぶりに著者の新刊広告を見つけ、図書館で検索したが、まだ入っていなかった。代わりに未読の本書を見つけた。文庫本仕様の小型本で、見逃していたのを司書の方に教えてもらう。

 いつもながら、40代に患ったという心の病から平穏さを取り戻したという話だが、静謐な書きっぷりにいつもどおりと思いながらも、読まされる。いろいろあったが、この方も穏やかな老年期を迎えられたのだと、己の来し方も含めてつくづく過ぎてきた年月を思う。

 六十五歳の誕生日にふれた文を読む。前期高齢者になったけじめの誕生日、夕食のメニューに、うどんとじゃがいもの天ぷら、きんぴらごぼうを妻に所望する。いずれも昔上州の山村で母代わりの祖母が作ってくれた大好物である。その思い出のごちそうを、幼い頃逝った母や祖母の位牌を置く仏壇に供えて、なにげなく合掌したら、思わず落涙したという話である。

「人生の得失は常に等価なのだろうか。高齢化とともに、諦念と引き換えに得たもののありがたさが身に沁みる」という感慨。「心身ともに『快』である以上の人生の目的はもうない」という想い。いずれも我が身にとっても、思い至るものである。

 

 

 

           三月やマリウポリてふ名のこびりつく

 

 

 

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明日は、三月の名を負う子の誕生日である。今年は彼女の記念樹がぴったりと満開になった。

 

水温む

天野忠詩集』 天野 忠著

小舟

  若い人は物持ちだから

  あたりの景色も見ずに

  どんどん先に行くのもよい。

  老人は貧しいから

  物惜しみをしなくてはならない。

  生から

  死に向かって

  極めてゆるやかに

  自分の船を漕ぎなさい。

  あたりの景色を

  じっくりと見つめながら

  ゆっくり ゆっくり

  漕いでおゆき、

  めいめいの小さな舟を。

 

 春本番。花々が一挙に開き出した。花粉を恐れながらも花を撮って歩いた。紅梅以下はうちの花。

 

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       たも持ちて漕ぎゆく子らに水温む

 

 

 じゃぶじゃぶと川をこぎながら、子どもたちが魚掬いをしてました。入るのは泥ばかりのようでしたが、水遊びが嬉しいのでしょう。



 

春風

土偶を読む』 竹倉 史人著

 土偶とは一体何をかたどっているのか。豊穣を願う妊娠女性像かと言われながらも、今一歩説得力ある説明がなかった。が、この本の仮説は実に面白かった。

 筆者は土偶の形態を具体的に分析する方法で次のように仮説を立てた。つまり「土偶は食用植物と貝類をかたどっている」という考えである。事例として取り上げられているのは、九種類の土偶群であるが、その形態的特徴と対象となった植物との酷似が、写真や図で説明されている。さらに、それらの植物や貝類が当時の人々の主要な生業の中心であったことも証明されている。

 森や海から主要な食べ物を得ていた縄文人は、それらを形象化、フィギュア化して植物霊祭祀をしたにちがいない。縄文中期以降に土偶が多く作られたのはそのせいで、弥生期に至って一気に消滅したのは生業の大きな変化によるものだと筆者は解く。

 因みに筆者の見立てによれば、「ハート形土偶」はオニグルミ、「山形土偶」はハマグリ、「中空土偶」はドングリ、「縄文のビーナス」はトチノミ、「遮光器土偶」はサトイモである。

 概ね非常に説得力があったが、かって見た「仮面土偶」や「八頭身土偶」などは事例に含まれてはおらず、これらは何に似ているのかと考えさせられた。

 研究書というより一般向けで、読みやすくわかりやすかったのもよかった。

 

 

 暖かさに誘われて、歩いていたら石垣に黄色い帽子が置いてあった。風で飛ばないように石がおさえになっている。拾った人の親切にちがいない。昔、教材に「黄色いバケツ」とか「白いぼうし」とかあったけ。どちらも落とし物だったような。キチョウになって飛ぶ前に早く持ち主に戻るといいな。

 

 

        飛びかねぬ黄色い帽子春の風

 

 

 

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おやおやこんなところに猫チャン。日当たりはバツグンで邪魔者は来ないね。

 

囀り

『老いのゆくえ』 黒井 千次著

 入浴時膝にくろにえ(岐阜弁で青あざをいう)を見つけた。土曜日に室内の段差で転んだせいだ。まだ薄暗い早朝、ゴミ出しの用意をしようと、電気もつけずにばたばたした。後で思えばスリッパもいいかげんにつっかけただけだった。くろにえ程度ですんだからいいもののトシヨリに転倒はダメだと思っていたのに、甘い。

 この本にも転んだ話や身体のバランスが悪くなった話が、何回もでてくる。しゃがんで腰が伸びなくなった話や、小さなものが指先から落下する話もある。筆者八十五歳、こちらはまだまだそこまではと思っても、似たようなことはある。明日は我が身かと思いながら読んだ。

 いつも難しいことを書かれている柄谷行人さんが、書評で「本書に書かれているのはまさに『老いていく自分』だけである。しかし、私はこの地味なエッセイに感銘をうけた。」と書いておられる。多分、柄谷さん自身も思い当たる体験がお有りだからに違いない。

 同時代の他人の歳が気になるのは、「自分の年齢にリアリティーがない」からだという。他者の歳を見て、七十代後半はあんなものかと思ってみても「他人は他人である。」「自らにふさわしい老い方をするより他にないのではないか。」と筆者は語る。

 確かに老い方には手本がない。理想的だと思っても、身体が付いていかぬ事情もある。私は私の老いを静かにたじろがず、時には笑いで受け止めていくしかないのかなと思う。

 

 

 

     風浴びるとき囀りも浴びにけり

 

 

 

 

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ラナンキュラス