夏燕

古墳を造ったのはどんな人たち?

 長年手付かずだった本棚を整理しようと思い立つ。二間の壁面いっぱいの本棚の半分が私用である。高い所は後回しにして、取り敢えず下部分の半分に手を付けたのだが、処分というのは難しい。歴史と俳句、宗教と古典は残したら半分しか片付けられなかった。

 久しぶりに手にしてこんな本もあったかと読みふけったのが写真の本。このところ思い出したように関心がある郷土の古墳の話である。

 市の講演やら書物で6C以降の当市の古墳の被葬者集団は概ね検討がついたが、問題は5C前半に造られた近くの「琴塚古墳」の被葬者集団である。うちから1キロ以内に県下第3位の琴塚古墳や、やや小さい柄山古墳のあることはすでに書いたが、文献資料によれば、かつてはさらに同規模の南塚古墳や土山古墳もあったという。5C頃、この大規模な墳墓群を築いたのはどういう集団だったのか、知りたいのはこの部分だ。

 古い書物(記や紀など)によれば、美濃の古代豪族として名前が出てくるのは本巣国造(三野国造・美濃国造・三野前国造)と牟義都(むげつ)国造、三野後国造、額田国造があるが、記と紀にある本巣国造はその中心地が現在の本巣市にあり、その地に「野古墳群」という大規模な古墳集積地をもっている。では牟義都国造はどうか。彼らは長良川以北、かつての武儀郡が中心地らしく、長良川以南のこの地とは距離がある。額田国造は滋賀に本拠地を求めるものが多く、美濃国の国造とするには疑問だといわれ、残ったのは「三野後国造(みののみちのしり)」だけだ。

 写真の本『古代の美濃』で、野村先生はこの「三野後国造」の本拠地を岐阜市各務原台地西端として物部氏に連なる豪族ではなかったかとされていた。さあ、これで問題ははっきりしたかというと、さにあらず。もう一方の本では「三野後国造」の表記は、9Cにできた『国造本紀』にのみ記載され、8Cに力を誇った物部系による創作ではないかという記述である。

 「琴塚古墳」は今も二重周濠をもつ立派な墳丘墓だが、この古墳を築いたのはどんな人たちだったのか。古墳の規模を見ると、この地に大きな力をもった勢力がいたことはまちがいない。物部系なのか牟義都国造の関係なのか、最近の研究はどうなのか、疑問はまだまだ尽きない。

 話は跳ぶが、先日購入した市の歴史本『各務原市の歴史』を読んでいたら、今住んでいる土地には旧石器時代の遺跡も縄文時代の遺跡も弥生時代の遺跡もあることがわかった。はるか太古よりよほど住みよいところだったと思って、嬉しくなったことだ。

 

 

        雲厚し地を擦るばかり夏燕