秋の風

『クワトロ・ラガッツィ 上』 若桑 みどり著

  天正少年使節と世界帝国

 宣教師が訪れた十六世紀半ばの日本は、戦国時代のまっただ中であった。切腹やら首切りなど血なまぐさい混乱した世情で、民は貧しかった。これをどうしようもない野蛮な民族とみた宣教師もあれば、憐れんで救済に努めて、ここに骨を埋めた人物もいた。

 後者のひとりがルイス・アルメイダというポルトガル人。若くして交易で莫大な富を築き、その多くを日本での布教に注ぎ込んだ。彼は科学的教育を受けた人物で、日本で初めての病院を開いて西洋的医療を広めたりもした。これを記念した彼の銅像大分市にあるというんだが、私は全く知らなかった。

 有名なのは、フランシスコ・ザビエルだが、彼は二年間という短期間しか滞在しなかった。日本よりむしろ中国布教を望み、志半ばで亡くなった。

 16世紀には実に何人もの宣教師がやってきたが、この本で詳しく取り上げられているのは、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、1579年巡察使として日本に来たイタリア人だ。日本の文化や日本人に深い親和性を持ち、「適応主義」という布教方針をとった。自分達の考えを押し付けるのでなく、自分たちが日本文化に適応してキリスト教精神をそだてることを目指したのである。

 日本人の資質を高く評価して、次世代のための教育機関セミナリオやコレジオ、修練院)や印刷所を建設することにも積極的であった。ローマに少年使節団を送る計画責任者でもあった。

 信長が一目置いたのも彼であったようだ。自分と同年代人で背が高く美しく、高貴で礼儀正しく、知的でローマに直結するこの男の価値と魅力を見抜いたのである。信長は信者にはならなかったが、キリスト教を肯定していた。「仏教の専制的支配を崩し、相対化してくれれば結構だ」これが彼の考えだったらしい。開明的合理的な彼は、異国の政情も理解し、いずれは自分も異国に打って出んと植民地主義的野望を抱いたに違いない。ローマに使節を送る計画に積極的に賛同した。

 信長がキリスト教を保護していた期間 1578年から1582年が日本でのキリスト教の絶頂期であった。1580年には十五万の信者と二百もの教会を八十五人の神父が世話をしていたとある。この絶頂期、1582年2月、少年使節一行とヴァリニャーノは長崎を出立する。6月、信長が本能寺で討たれた年であった。

 上巻はここで終わったわけではない。最終章は少年使節の出立から始まる。大部の著作でなかなか進まないが、興味深い話ではある。何よりも16世紀にこれ程キリスト教が浸透したということは知らなかった。宣教師たちの観察を通じて語られた信長像というのも現代人をみるようにリアルであった。

 

 

 

       ボール追ふ声をのせくる秋の風