梅雨深し

 『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』 吉村 昭著

 川路の生きた時代はまさに激動の時代であった。軽輩の身から勘定奉行にまで上り詰めた一生も、またそういう時代が求めたものであったかもしれない。

 この本で読む限り、川路の最大の功績はロシアとの和親条約の締結であろう。1853年(嘉永6年)ロシア船が日本との通商を求めて長崎に来航して以来、一貫してロシア使節プチャーチンとの会談を重ねたのは川路であった。はるばると長崎や下田に何度も足を運び、毅然として交渉に当たり、国境を確定する日露和親条約を結んだ。その間、約一年だがアメリカ船やイギリス船の来航もあり、「安政東海地震」にもみまわれた。これは翌年の「安政地震」の前触れともいうもので、川路たちが会談をしていた下田は津波に襲われ、町は壊滅、死者も多くでて川路自身は山へ逃れたが、ロシア船は竜骨が折れる大被害となった。結局ロシア船は沈没して、日本側は彼等の帰国用の船を新造することになる。プチャーチンを初めすべての乗員が帰国の途に着いたのは安政2年6月であったが、この間、被災したロシア人の暮らしを支え、加えて新造船も提供した。ロシア側には大いに感謝されたのだが、当然であろう。幕府は苦しい台所事情であっても国の威信を掛けて接待したのである。津波にあった下田の住民救済にも素早く米や金(米五百石と二千両)が配られるなど、政府としての対応がされ、川路らは各々寄付もした。

 川路とプチャーチンは国の利益をかけて会談では激しくやりあったが、個人的には良好な印象を持っていたようだ。余談でお互いに妻の自慢をしたり(川路は自分の妻は江戸一の美人だと披露)長い交渉の苦労を傷みあったり、おたがいの胆力・知力を認めたりもしている。

 ロシアの問題が片付いた後も川路は外交通の勘定奉行として重用されるが「安政の大獄」で一橋派とみなされ御役御免隠居蟄居となる。この間、「安政の大地震」あり「日米和親条約締結」あり「将軍の代替わり」ありと、まことに世情はめまぐるしい。

 川路も歳をとり、体調も優れぬようになるが、「安政の大獄」後、もう一度外国奉行として幕政に呼び戻される。しかし錯綜する政情の中で老いを感じた彼は、これが自分の限界だと「御役御免」を申し出る。

 翌年「脳出血」で倒れ、病床で崩れゆく幕藩体制を憂い悶々と過ごすが、1868年(慶応4年)3月倒幕軍が江戸城に入るという日に切腹、死にきれずに短銃自殺をした。幕府に殉じた最期であった。

 あとがきで吉村さんは「幕末に閃光のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物である」と書いて、彼のような卓越した幕吏たちが、日本を列強の餌食から救ったのだとたたえている。

 幕末史は難しくて何度読んでも忘れてしまうのだが、「晴天を衝く」が渋沢の目からの幕末史なら、この本は川路聖謨を通しての幕末史だった。私としては、薩長よりも奮闘、苦闘しながら滅びゆく幕府に同情を禁じえなかった。

 

 

 

 

 

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 八重のクチナシ