五月闇

土偶を読むを読む』 望月 明秀編

 『土偶を読む』は去年3月12日、このブログでも取り上げた。土偶を形態的特徴からいくつかの食用植物や貝類のフィギュアと見立てた仮説で、面白かったと書いている。

 この本はその仮説に対するアンチテーゼである。「皆目検討違い。そんなわけあるかいっ!」と帯にもある。反論を許さないというので、これでもかこれでもかと、手厳しい。

 と、いうのも『土偶を読む』がベストセラーになり、著名人をも感心させ、なおかつ「サントリー学芸賞」や「みうらじゅん賞」も、獲得したからである。さらに子どもたち向けの図鑑まで出版されたのでは、黙っていられないということらしい。

 もっとも専門家たちは、最初から相手にしていないか、反論するまでもないとの立場なのか、それほどの動きはなかったらしい。それに業を煮やしたのが望月氏で、彼自身は熱心な縄文ファンに相違ないが、学者ではない。

 望月氏はまず、『土偶を読む』の手法を逆手に取り、代表的な土偶と植物の関係を検証する。

 似てるとこだけ見てるじゃないか。欠けた部分も、似てないところも全く無視。形の移り変わり(編年)も頭にない、第一当時の植生との関連もいい加減だ。

 全くの全否定だが、資料からみれば、当然の言い分だ。

 こちらだって、『土偶を読む』の見立てを信じたというより、素人の興味深い仮説だと思って面白がったというところだったから、学問的に価値があるとは最初から思っていなかった。

 延々と続く反論より、この本で興味深かったのは、専門家の「縄文研究の現在」に触れた意見である。山田康弘氏(東京都立大学教授)は、いまや縄文学は日進月歩の勢いだと言われる。特に理化学的分析との接点をもつようになったことが、大きいらしい。より実証的考古学に変わってきてるらしいが、精神文化的側面は非常に難しいとおっしゃっている。

 それはそうでしょう。昔々の縄文人がなにを考えて土偶を作ったかは、なかなかわかるもんではないでしょう。山田先生は、土偶の本来的なイメージになっているのはヒト、それもヒトの女性を模したものではないかと言われる。どの土偶ももっている大きなおっぱいから、その想像は容易だ。女性がモチーフになっているということなら「そこで期待されるものというのは、生命を生み出すという、そういうことなんだろうと。」

 別章に「土偶とは何か」の研究史が、掲載されている。明治から現在に至るまでの研究史である。わざと壊した説とそれを否定する説、神像、祖先像、お守り、身代わり、おもちゃ、飾り、果ては宇宙人説まである。昔の人々の思いは想像するしかないが、「女性の生殖力を神聖化した」女神像(地母神)というのが、納得できるところでしょうか。それにしてもどうしてあんなにデフォルメしたのでしょうか。

 

 

       反論を許さぬ反論五月闇