明易し

『生きて帰ってきた男』 小熊 英二著

 これは、著者が自身の父親(謙二さん)の聞き手になって編んだ、オーラルヒストリーである。

大正末年に生まれた彼は、当時の庶民的な暮らしの中で成長、満19歳で招集された。1944年のことで、すでに日本には満足な軍装備品すらなかった。満州に送られ、そこで敗戦日を迎え、シベリア送りとなる。

厳寒の地((チタ)で四年間、体力的にひ弱だった彼だが、それでも生きて帰ってきた。

帰国後、結核に罹患、30歳まで療養所暮らし。30を過ぎ、懸命に働いて家庭を持ち、暮らしの安定を得る。しかし、その間に息子の一人を事故で失ったりもした。

彼が彼らしく特異な活動に力を入れたのは、老年になってからである。日本人の抑留者には僅かな慰労金が出ることになったのに、日本兵として戦わされながら、何の慰労もされない朝鮮人や台湾人のかっての兵士達。「朝鮮人を日本人として徴集しながら、現在外国人であるがゆえに支給しないのはおかしい」。彼は自分が受け取った慰労金の半分を、かって同じ収容所にくらした朝鮮出身の兵士に贈る。

その縁で、外国籍の兵士達が起こした裁判の共同原告にもなった。

決して「政治的人間」ではなかった彼が、「これは明らかな差別であり、国際的に通用しない人権無視であります。」と述べる陳述書は、感動的で説得力があったが、結果は最高裁での「請求棄却」で終わってしまった。

 

筋を通した生き方をされた謙二さん、この本の執筆当時はまだお元気であったようだが、今はどうであろうか。謙二さんの生きた時代は、二人の姉の生きた時代でもある。我が家は女性だったから兵役は免れた。しかし同じ時代背景の中で、ひとりの姉は早々と病に倒れ、ひとりの姉は安定した戦後の暮らしを得た。同じ混乱の時代を生き、そして今は多くは鬼籍にはいったその他の人々、その生涯を思うと、目頭が熱くなった。

 ところで、敗戦後の「シベリア抑留」は、ソビエトの全く不実な行為だと常々思っていたが、実際には関東軍との間で、密約があったと言うではないか。兵士達はどこまで裏切られていたのだろうか。

  

 

   

          亡き人の夢を反芻明易し

 

 

連れ合いの都合でスマホデビュー。あまり必要を感じていなかったが、利用料金は前より安くなりそう。使いなれるまでが大変。昨日は来訪した娘に特訓を受けた。