青大将

『天野 忠随筆選』   山田 稔選

 天野さんの既刊の随筆集をもとに山田さんが編まれた随筆集である。天野さんの詩集は先に読んだが特に心に残っのは老妻ものだ。これは随筆集であり詩集とはまた違った趣があるに違いない。

 あとがきで山田さんは、「何でもないこと」が天野忠の随筆の中身だ、「何でもないこと」にひそむ人生の滋味を平明な言葉で表現するのが文の芸だと書かれている。天野さんも自身を何でもなさを嗜好とする天邪鬼的な存在だと認めておられるし、その詩もそういうものだったように記憶する。

 天野さんは若い頃から蒲柳の質だったらしく最小限の働きで糊口をしのぎ後は悠々自適で生きてこられたような印象を受けたのだが、どうであろうか。どれを読んでも韜晦したような謙虚さが滲み出ている。

 いくつかの暮らしの断片からしみじみとした滋味を味わわせていただいたが、ことに心に残ったものはやはり老いてからの暮らしの断片である。念願の書斎ができてその天袋に古日記や古ノートの大束をしまい込もうとしての述懐である。(「書斎の幸福」)本当は一度に焼いてしまうつもりが焼けなかった古いノートや古い日記帳。

 「 三十年も昔のノートの頁を繰ることが出来るというような、そのようなことが出来る境涯になったということ、少しばかりもの悲しく、しかしまた少しばかり満ち足りたような感じ・・・これがひょっとしたら幸福というものかもしれない。」

たぶんそうだろうと肯いつつも、いやそれだけではないだろうとも思う。

 「残して置きたいというのは、生きてきた証拠がためみたいなもの、幸や不幸とは関係なく、この人生にしがみついて生きてきたことのしるし・・・」

 

 ふと、呆けるまで五十年以上に渡って日記を書いてきた姉のあの膨大な日記は、今や無人ともいえる家で静かに埃をかぶっているかなと思う。姉は歳をとったら読み返すのを楽しみのひとつにすると言っていたのだが。姉程ではないがもう三十年ぐらいになる自分の日記や句帳だって、何ほどのこともないくせにたまっているではないか。

 

 先だって岩波ブックレットで『年表 昭和・平成史』を買った。1926年から2019年まで一年一頁の記載である。欄外に自分史や家族史を記録してみようと思ったのである。天野さんではないが、全く「生きてきた証拠がためみたいなもの」である。トシヨリは記録したがる整理したがるといったのはたしか池内さんだったと思ったけれど・・・。

 

 車庫の脇の蝋梅の茂みにスズメバチが巣を作っているのを見つけた。まだハンドボールのボールほどだが今のうちになんとかしなければとH殿。何年かに一度はあるのだが、またまた余計な物入りである。蛇やら百足やらと自然との共生もなかなか厄介だ。

 

 

 

 

         漢にも泣きどころあり青大将

 

 

 

 

天野忠随筆選 (ノアコレクション (8))

天野忠随筆選 (ノアコレクション (8))