田植

『俳句のたのしみ』  中村 真一郎著

 いつだったのか忘れたが、Tに薦められて読んだ。全く覚えてなくて再読する。なかなかいい本で、久しぶりに俳句にどっぷり浸かる。

 内容は三つにわかれる。まず中村さん好みの江戸中期から天明期の俳人、彼が「ロココ風小詩人選」と名付けている俳人の句の紹介。十三人を挙げて来歴やら句と句の簡単な鑑賞が記されているので、それぞれの中で一番気に入った句をひとつずつ記して記憶に残そうと思う。

 炭  太祇   うつす手に光る蛍や指のまた          繊細で視覚的

 大島 蓼太     五月雨やある夜ひそかに松の月 「ある夜ひそかに」のユニークな措辞

 建部 涼袋   傘(からかさ)のにほうてもどるあつさかな  油紙の匂いを実感

 堀  麦水   谷々(やつやつ)に日なたほそめて今朝の秋  「日なたほそめて」がうまい

 高桑 闌更   山ぶきや花ふくみ行魚もあり        視覚的 はなやか

 黒柳 召波   憂ことを海月に語る海鼠かな       俳諧味たっぷり

 高井 几菫   短夜や空とわかるる海の色        大きく広い景色

 加舎 白雄   すずしさや蔵の間(あい)より向島    江戸情緒

 加藤暁台と三浦樗良と上田無腸(秋成)については好みの句がない。最後、十三番目の一茶については句を引くのではなく解釈についての意見。著者は長い信濃暮らしから信濃の方言を使った一茶の俳句 

         目出度きもちう位也おらが春

についてこう語る。

「「目出度きも」の句であるが、「おらが春」とわざわざ田舎言葉をむき出しにしている以上、私は「ちう位」も信濃方言の意味が裏打ちされているように思えて仕方ない。・・・普通は「ちう位」と言えば、「ほどほど」というので、悪い意味はない。(しかし信濃方言では)それは大体、今日の「いい加減」という言葉とニュアンスを同じくする。・・めでたいなんて言ったって、おれたちのこんなぼろ屋の正月なんて、いい加減なものさ」・・・俳諧的おどけを自らから感じている、そういう面白さをねらった句だ」

なるほど、この解釈の方が一茶の境涯を一層鮮明に浮かび上がらせてくれる気もする。

 さて、ふたつ目は「文士と俳句」。取り上げられているのは漱石・鏡花・荷風・龍之介・万太郎・犀星である。どの人もみな俳人としても著名であるが万太郎などはまさに余技というのかどうか、一座をなした宗匠でもある。それが取り上げられたのは彼の俳句が中村さん好みの「江戸風発句」であるからで、中村さんは文学臭のある近代俳句は好みではないのだ。その点では荷風も「時代おくれの空気に満ちた」「江戸風」の俳句だから自分の好みに最も近いと述べておられる。万太郎は私も好きで読んだこともよくあるが、荷風は知らなかった。情緒のあるいい句が多い。ひとつだけ記すのは難しいが

    下駄買うて箪笥の上や年の暮

 最後は中村さん自身の「樹上豚句抄」と名付けた、人生の節目節目での発句集。「豚もおだてりゃ樹に上る」とおどけておられるがなかなかのもの。「あとがき」で金子兜太さんが「<遊俳>の素振りでつくっている俳句も、なかなか油断がならない」と書いておられた。歳をめされてからの一句。

    遅き日を亡き名かぞへて暮れにけり

 

 

 

 

        田水もて洗ふ田植え機夕映えて

 

 

 

 

 

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ユリが真盛りだが大ぶりすぎてあじわいに乏しい。

 

植田

再再再再手術と運転免許のこと

 一昨日ひと月半ぶりの病院。形成外科の診察を受ける。やはり手術が必要と言われる。「放射線難治性潰瘍」との診断である。これからどれだけ生きるかわからないが、湯船にもつかれない暮らしではつまらないので手術を受けようと思う。何処からどのように皮膚をもってきて治療するか先生たち(午後からは大学の先生の診断も受けた)も判断がすぐとはいかず「相談しておきます」と言われる。詳細は再来週の診察の時になるがそれまでにまたCT検査が入った。

 実はこの秋の誕生日で運転免許証の更新である。その前に来月「認知症検査」があり、9月には「高齢者講習」を受けなければ更新はできない。順調に治癒して運転ができるようになるのか、このことも悩ましく主治医の先生にも聞いてみた。「免許返納にはちょっと早いかもしれませんがそれも選択のひとつですね」とのこと。もう半年は乗ってないからなくても何とかなるが、田舎だから気楽に出歩くには車は便利だ。何でも家人に頼まなければならなくなるのは少し淋しい。

 また入院となるだろうから整理をしておこうと昨日は紙類の整理。またTの家事訓練(?)も開始。体力を戻すため散歩継続。

 

 

 

 

         さざ波を押してさざ波植田風

 

 

 

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アレチハナガサ

 

梅雨晴間

『人間晩年図巻  1990〜94年』 関川 夏央著

 前回書いた本に先立つ一冊である。「あとがき」で山田風太郎さんの『人間臨終図巻』の衣鉢を継ぐ旨が触れられている。

 1990年(平成二年)はバブル経済が崩壊、東西ドイツが統一した年である。その翌年は湾岸戦争雲仙普賢岳火砕流ソ連邦消滅。92年から93年にかけては新党の結成が相次ぎ非自民の連立内閣(細川内閣)誕生、この後羽田、村山内閣と連立政権は続く。経済的には不況で今も禍根の残る就職氷河期でもあったし、94年は松本サリン事件。

 この間の物故者として取り上げられたのは36人、長く書かれた人もあれば短くまとめられた人もある。一番長かったのは山本七平氏、その後大山康晴氏、ハナ肇氏、乙羽信子幸田文氏と続く。どの人も著者の好きな人なのだろうか好意的である。

 昔、山本七平氏の『日本人とユダヤ人』を読んだ覚えがある。詳しい中身はすっかり忘れたが斬新な切口に驚いて読んだことや、著者のイザヤ・ペンダサンが一体誰なのか様々な憶測が飛び交って多分山本氏本人だろうということになったのも覚えている。今回かの人がかなり敬虔なキリスト教徒であることやマニラ戦線の地獄からの生還者であることは初めて知った。戦争の真実について発言されつづけたのもそのような背景があったようだ。晩年に至るまで戦地から持ち帰った病の後遺症に苦しまれたという。

 大山・ハナ・乙羽・幸田各氏は享年の早い遅いはあるがみな晩年まで充実した人生でありお幸せであったのではないか。

 この本では奇人・変人の部類の人も悲惨な最期であった人も取り上げられているがそれは興味のある人は自分で読んでもらったほうがいい。

 一人の記録を読むたびにその生年と自分の生年を比較し享年と自分の歳を想い、その生きた時代を顧みる。近頃は著者の来歴を見ても同じである。今日の新聞の読書欄に福岡伸一氏のこんな言葉があった。

「・・・私たち自身にもそれほど長い時間は残されていない。片付けるものを片付け、わだかまっていたことを整理し、不可解な記憶を捨て去るのではなく、その意味と静かに向き合うべき時が来ているのだ。」

 ここに出てきた人々は「私たちの同時代人だ。その晩年史を描くことは現代史を書くことにもなる」と筆者も書いている。その時代を私はどう生きたか、それがこの本を読む興味の一つかもしれない。

 

 

 

 

        闊歩する鴉と野良や梅雨晴間

 

 

 

 

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人間晩年図巻 1990-94年

人間晩年図巻 1990-94年

 

梔子

『人間晩年図巻  1995−99年』 関川 夏央著

 web岩波での連載を愛読している。ネットは2000年以降の物故者について(それも中途から)でそれ以前のものも読みたいと図書館で借りてきてもらった。関川さんの語り口は好きなので久しぶりに楽しむ。ハードボイルドの手法というのはどういうものか。よくはわからないのだが「感情を交えず、客観的な態度・文体で事実を描写する手法」(広辞苑)というならまさにこの本の筆致はそうにちがいない。取り上げた人物の生涯を俯瞰し、華々しかった時も苦境の日々も赤裸々に俎上に載せられてはいる。が、筆者自身の感想はせいぜい擱筆の一、二行だけ。だからこそ読んだ者が人の一生の儚さを思い、誰にでもいつかは訪れる「死」についてしみじみと考えさせられるのだ。

 1995年は阪神淡路大震災地下鉄サリン事件の年、1999年までの5年間は不況の只中で不良債権問題化、ホームレス急増、リストラによる中高年の自殺の急増と年表には碌なことが書かれていない。

 この間の物故者で取り上げているのは36名。著者の好みなのか衆知の人ということなのか映画や演芸関係者が多い。例えば寅さん(渥美清さん)や萬屋錦之助さん・勝新太郎さん・三船敏郎さんなどなど。寅さんを除いてみんな華々しかったわりには哀しい晩年であったし若い(今の私と比べれば)享年であった。

 ダイアナ妃の亡くなった当日のことははっきりと覚えている。その日は日曜日で句会があった。主宰が席に着かれるなり「ダイアナさんが亡くなったよ。運転中にラジオで聞いたよ」とおっしゃったのだ。「へぇ」とか「はぁ」とか声にならないため息が会場にひろがったことを思い出す。

 司馬遼太郎さんも藤沢周平さんも江藤淳さんもこの間に亡くなられた。先の二人に比べて「自死」という選択をとった江藤さんについては、珍しく同情的に筆者はこう書いている。

 「妻であり友であり、そして母でさえあった慶子夫人を失って生きる気力を喪失した初老の男の背中に最後のひと押しを加えたのは、まさに天の悪意であった。」と

 彼が自死した夕方は、電車も一時運休となるほどの時成らぬ激しい豪雨にみまわれたらしい。

  そうそう玉緒さんが新太郎さんのお棺に五百万円を入れて灰にしたという話にはおったまげた。夫の「『映画スター』という豪放磊落な役をまっとうさせるために五百万円を灰にした」と筆者は書いている。

 

「梅雨入り」して三日目。降り続く雨にいささかうんざり。ごろごろしていて運動量も少ない。昨日は娘一家が来てちょっと気が晴れた。

 

 

 

 

          梔子や古墳横切るはしょり道

 

 

 

 

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人間晩年図巻 1995-99年

人間晩年図巻 1995-99年

花菖蒲

『風と双眼鏡、膝掛け毛布』 梨木 香歩著

 急に暑くなり気持ちが萎える。リハビリと頑張って歩いていたがさすがに今日は歩く元気が出そうにない。

 月曜日から図書館が開館になり家人に頼んで借りてきてもらった本。前回読んだ本の梨木さんのイメージからは意外な感じを受ける話だ。というのも行動派には違いないが今回は国内の旅と、その折り折り耳にし目にした地名への考察である。「学問的考察はとても自分の任ではない」と断っておられるだけに、地名の由来は小耳に挟んだ謂れや推察でその辺りは物足りなく、土地土地でのエピソードも短いのでなかなか土地への想いが結びつかないところもある。

 しかし、心に残った土地もいくつかあったのでその内のいくつかを挙げると、まず「種差」である。種差海岸というのは青森県の太平洋側 の海岸。波打ち際近くに高山植物が咲く稀有な場所らしい。ニッコウキスゲツリガネニンジンハマヒルガオハマナス等々。花々に驚く筆者の心の高ぶりが伝わる。なんでも震災後は塩害で大打撃を受けたが復活してきたらしい。この時外来植物のみ消えたというのは象徴的な話で面白い。「種差」とはアイヌ語由来(長い岬の意味)であるらしいとのこと。出かけてみたいが遠いなあ。

 沖縄の「富盛(ともり)」の話も実に短いが興味深かった。ここの勢理城(じりぐすく)跡に沖縄最大最古のシーサーがあるらしい。このシーサーは1689年村の火災避けに作られたものということだが、1945年の沖縄戦ではこの像を挟んで日米の激戦が繰り広げられたというのだ。検索でシーサーの足元に臥せるアメリカ兵の写真を目にした。アメリカ兵の弾除けになってシーサーはどんな思いであったろうか。シーサーにはいくつもの弾痕があるという。

 もう一つ書き写して記憶に残しておきたいのは「玉蟲左大夫」という人のこと。この人のことはアイヌ文化由来の地名「濃昼(こきびる)」の件に出てくる。江戸末期の人で蝦夷巡検隊の記録係として出てくる。北海道の紀行記録としては『入北記』があるが、後に遣米使節から世界一周した記録『仙台藩士幕末世界一周』の書き手でもあった。実に開明的で「近代的知性、感性」の持ち主だったらしいが維新の動乱の中で切腹して果てたという。西の坂本龍馬に比すべき東の存在だったらしいが、今まで知らなかった。この本で初めて知っていい人を教えていただいたと思った。

 地名というのはどこも古い謂れや地形に根ざしており近頃わかりやすいとかおしゃれとか便宜的とかいうだけで簡単に改名するのはどうかと思う。うちの市も一時読みやすい名前にという議論があったが変わらなくて良かった。市の名前は古代の豪族の名前に由来するし住所に残るかっての町名は正倉院文書の美濃の戸籍にもあるもので綿々と住繋がれてきた証だ。

 

 

 

 

          禁色のいろこそ良けれ花菖蒲

 

 

 

 

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風と双眼鏡、膝掛け毛布 (単行本)

風と双眼鏡、膝掛け毛布 (単行本)

  • 作者:香歩, 梨木
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

白鷺

 okatakeさんのブログを読んでいたら録画した映画『若草物語』(1949年)を見た話が出てきた。見た。見た。私も懐かしくて見たがokatakeさんのように5回も泣けなかった。というか懐かしかったけれど古めかしいなあと思っただけで、鈍い感性だ。それより昔(恐らく60年ぐらい前)に好みじゃないなあと思った男優陣はやっぱり好みじゃない。女優陣に比べて見劣りする気がする。ともあれ『若草物語』と『赤毛のアン』は少女時代の思い出だ。

 

 『あづまみちのく』 唐木 順三著

 まだ図書館が開かないのでTの古本ストック書棚から興味の持てそうなものを探してきて読んでいる。これは古い中公文庫で(昭和53年刊行)中身は面白そうだが活字が実に小さいのが難点だ。十の小編からなるが「実朝の首」・「頼朝の娘」・「業平の東下り」を読んだ。

 実朝も大姫も頼朝の子である。二人共深い孤独のうちに若くしてなくなった。実朝はよく知られているように頼家の子公暁による暗殺であり、持ち去られて首の所在は定かではない。

一応「首塚」というものが伝承されそこを訪ねるところから話が始まる。実朝という人は自分の運命を予感していたようなところがあり宋に行こうと船を造らせたこともあるらしい。結局船は浮かばず悲劇的生涯に終わった。

 大姫(頼朝の長女)は幼い頃許嫁の志水冠者義高(義仲の息子)を父に殺され、以後深い憂愁に沈む。母政子は入内まで図り気を引くがそれすら拒んで義高の思い出に果てた。歴史上の女性で自らの意志で入内を拒否したのは彼女くらいではないかと唐木さんは言う。

 「この姉弟は頼朝と政子というしたたかな心の持ち主の子としてうまれながら・・・孤独のなかで己れを強く持ちつづけて果てた」と著者も同情的で、哀しい。

 「業平の東下り」は業平をモデルにしたと思われる『伊勢物語』の筆者の話である。『古今集』の業平の歌の長い詞書に共通する部分があるから、それは紀貫之ではないかとされる。もちろん定説は作者不明である。「かきつばた」を詠み込んだ折句を賀茂真淵が激賞したとあるが確かに巧みでいい歌である。業平は実際に東下りをしたにちがいないと筆者は書いている。

 

 

 

 

         白鷺の重力のなき着地かな

 

 

 

 

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ゴテチャ

 

夏燕

『この国のすがたを歴史に読む』 網野 善彦・森 浩一著

 Tが拝読しているブログで紹介されていた本、興味が湧いて古本を注文する。歴史家の巨匠、お二人の対談集である。たくさんの本を興味深く読ませていただいたが、この本は初見である。(2000年刊)対談集であるから断片的ではあるが「日本や日本文化」について随分と示唆に富む内容である。いくつか例を上げると

○ 縄文時代から三内丸山遺跡などで巨大柱の建物が建てられていたのはよく知られているがそれらの建物に共通の単位がある。つまり「物差し」の存在である。しかも大陸のにも同じような基準尺があることもわかり、すでに大陸と知識の共有があった。

○ 弥生時代から絹の生産は始まった。古代末から中世にかけて美濃・尾張以東の荘園では年貢は絹や布であった。蚕を「ヒメコ」という地方があるが「卑弥呼」に繋がるものがあるかもしれない。現在でも皇室で皇后の務めとして養蚕がおこなわれている。

○ 縄文の頃から黒曜石や翡翠のように遠隔地との交流は盛んであった。遠くても「この国の先祖たちは、良い材料があれば命がけでとりにいった。」3cの壺にすでに帆船の文様がある。それも左右に80本ぐらいの櫂があるものだ。(これは岐阜の大垣の遺跡から出たものなので見に行かなければ) 古墳壁画が中部九州と太平洋側の関東・東北に集中するのも人の移動が考えられる。縄文にはなかった竹などの分布も南九州からの隼人の移住と関係があるらしい。

○ 「漢字を弥生時代のある段階で受け入れて、自分たちのものにしている。」識字率が高いのは以前から言われているが知的好奇心が高かった。遣唐使で中国に渡った人たちが贈り物を書物に換えて帰国したという中国側の記録がある。

○ 女性が意外と力を持っていた。最初に仏教の修行を始めたのは女性で尼さんも多い。中世には女性の金融業者の活躍もあった。動産・銭に関することは非常に力を持っていた。

 面白いと思う件を書き出していると切りがないからこのあたりまでとするがお二人はすでに黄泉の人である。現在の学問的研究はどのあたりまで進んだのであろうか。歴史学を志す者なら研究対象としたいことばかりである。

 

 

 昨日は終日パンツのリフォームに費やした。痩せてどれもガバガバなので何とかしようと奮闘したのだが出来映えはよくない。おうち着ぐらいは我慢するかというところ。つくづく器用でないと落ち込む。

 図書館がまだ開館しない。閉館中は増えることも覚悟して購入したけれど図書館に入れば言うことはない。

 今日の「英雄たちの選択」は「月山富田城」とあったからもう一度宮脇さんを眺めておこうと思う。

 

 

 

 

          背後よりかすむるごとく夏燕

 

 

 

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 夫の誕生日と母の日のプレゼントを兼ねてY夫婦がプレゼントしてくれた花苗で寄せ植えをしました。やっと根付いてきたこれはその1。まだ咲いていないのもありますが、キンレンカカランコエペチュニア・ラベンダー・バーベナツユクサです。