秋澄む

吉野・飛鳥・奈良紀行 1

金峯山寺御開帳

 吉野の金峯山寺の本尊蔵王権現三体を拝観したいというのが、長い間思っていたことである。二十三年前の秋にお参りした時は、秘仏のご本尊にお目見えすることは出来なかったが、今回は国宝仁王門の修理に伴い特別公開されるというのだ。前の参拝は近鉄で出かけたのだが、今回は家族に無理を言って車で出かけることにした。疲れも考えて周辺を廻る二日間の予定である。

 吉野へは伊賀を経て、大宇陀から入る。宇陀は万葉集にも出てくる阿騎野の地で、人麻呂の著名な歌「東の野にかぎろいの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ」が詠まれた土地である。山間に落ち着いた家々が点在し、日本の原風景のような懐かしさがある。古い町並みが残り、この内の一軒で蕎麦の昼食をとった。十割蕎麦に角煮の厚切りという珍しい取り合わせ。いつもながら、食い気が先立ち、箸を取ってから写真を撮ればよかったと思いつく。

 吉野の下千本駐車場に到着したのは、さらに小一時間後。自宅から194.8キロ、四時間半である。金峯山寺修験道に由来するお寺であり、その門前町も山の峯筋に広がっている。道幅も狭く、ともかく歩いて登るしかない。これがトシヨリにはきつく、よろよろと足を進める。吉野葛を売る店や柿の葉寿司を食べさせる店が並ぶが、記憶の町並みより寂れている。桜の季節でもないし、御開帳といっても来訪者は多くはないようだ。

 黒門、銅鳥居を経て、今は工事用のシートに覆われてみられない仁王門(国宝)をぐるりと回れば、本堂(国宝)である。白鳳時代役行者によって開かれたという。ご本尊が蔵王権現三体、本地仏が釈迦如来弥勒菩薩、千手観音である。群青色に彩色され憤怒の表情で片足立ちをされた巨大なお像(七メートル)三体は、見る者を圧倒する。(気になる方は、御開帳のポスターを検索されたし)一人ずつお像と向き合うように参拝場所が用意されており、長年の思いが果たされた。

 さて、これで下りてもよいのだが、吉野は初めてという連れ合いのこともあり、吉水神社まで足を伸ばす。吉水神社は、南朝後醍醐天皇の御座所があったところだ。書院造りの建物が残り、吉野に隠れ住んだという義経主従の持ち物や、ここで大花見をしたという秀吉ゆかりのものもある。狩野永徳狩野山雪の襖絵や金屏風などもあるが、みな傷みがはげしい。

 南朝の御座所とありぬ隙間風

これは二十三年前に詠んだ句だが、御座所というにはあまりに侘しい。

 昔はここより奥にも足を伸ばしたのだが、今はとてもでない。どうにか歩いて下山。万歩計は8000歩近い。時間は三時過ぎ、ホテルに入るにはちと早い。

飛鳥 牽牛子塚古墳

 途中の牽牛子塚古墳に寄ろうかという話になる。最近綺麗に整備され、白いピラミットのようだというのを聞いていた。付近に駐車場はなく、やや小高い丘まで、また登りである。

 牽牛子とは朝顔のこと、美しい正八角形の形をして真っ白な凝灰岩の葺石に覆われた二段築成の墳墓である。被葬者は斉明天皇皇極天皇)で間違いないらしく、『日本書紀』によれば、娘の間人(はしひと)皇女が合葬されているとのことだ。確かに石室は二部屋に分かれ、棺を置く場所も二箇所ある。中の見学は事前予約がいるとのこと。

 側に小さい方墳(越塚御門古墳)がある。大田皇女の墓らしい。大田皇女は天智天皇の娘、天武天皇の妃であり、大津皇子の母であった。うののささら(持統天皇)の姉だが、若くして亡くなった。うののささらは息子の草壁に対して、大津皇子の聡明さを妬み、謀反の罪で死罪を賜った。古代史中の悲劇のひとつである。この見晴らしのよい丘の祖母の隣に、彼女を葬ったのは父であろうか、夫であろうか。

 墓からは飛鳥が遠望できる。

すぐ前の方形が大田皇女の墓

 

  

       秋澄むやはるかに飛鳥のぞむ墓

 

 

 これで一日目終了。歩いたのは11593歩。 

 飛鳥に来た時はここにと決めている、橿原ホテル、夕食は前も行ったホテル近くの小さな居酒屋「まる」。連れ合いはお気に入りである。又今度もここだなというが、まだ来ることはあるかしらん。