初蝉

縄文文化と日本人』  佐々木 高明著

その1

 また、縄文である。私には手強い本だが興味深い内容なので、ここで大雑把な紹介を試みてみようと思う。 

 問題は「日本文化はどのようにして成立したのか」ということである。筆者は「日本文化は単一の稲作文化である」(柳田国男など)という立場には立たない。稲作伝来以前、つまり縄文時代に「すでにいくつかの文化の波がアジア大陸から日本列島に波及し、それらの異質な文化が複合して日本文化を構成した」というのである。

 筆者は日本列島の東西の文化的違いに注目する。昔から言われる東日本と西日本の違いである。例えばそれは東日本での囲炉裏での煮炊きや西日本での竈での煮炊き、言語的違い、運搬での背負子と天秤棒、馬利用と牛利用、醤油などの味覚の差などなど。

 今日までのこの国の東と西の大きな地域的文化の違いを、遥か縄文時代にまでさかのぼってそのルーツを求めようというのだ。

 日本列島の植生は東と西では大きな違いがある。東は落葉広葉樹林帯あり、西は照葉樹林帯である。東西の境界は、だいたい石川・福井両県の県境から三河湾に至る線だが、温暖な関東平野から千葉県にかけなどは照葉樹林帯に属する。

 この大きな植生の違いが文化の違いを生んだとというのは容易に納得できる。落葉広葉樹林帯はナラ、トチ・クルミ・クリなど豊かな食料を供給した。これに対して、照葉樹林帯はドングリである。縄文期の人口格差(縄文後期でも西日本の人口は全体の12・3%ほど)が大きくならざるをえなかったわけが、それだけでよくわかる。

 落葉広葉樹林帯(ナラ林文化)では「植物性の食料を中心に多様な食料が、安定的にに供給されるシステムがすでに存していた」と考古学者は考える。。豊富な木の実とサケ・マスなどの漁猟シカ・イノシシの狩猟、加えて初期的な植物栽培が行われていたのは、よく知られることである。この文化は広く東北アジアと文化的つながりを持ち、日本にアルタイ系の言語をもたらしたのではないかと筆者は推察する。

 一方、照葉樹林文化は東南アジアから中国江南を経て朝鮮半島南部にいたる地域と共通の文化的特色である。カシやシイの実、クズのでん粉、野生のイモ類をや狩猟を中心とした食料、早くから焼き畑農耕も始めていたらしい。有毒な野生のイモ類(ヒガンバナ・テンナンショウ)の毒抜き法や渋いドングリのアク抜き法、つまり水さらし法は、照葉樹林文化圏で必要に迫られて考え出されたもののようだ。

 日本列島の東と西の違いが、こんなところから始まっていたとは、なるほどと納得することしきりだ。さて、東のナラ文化圏より一歩遅れていた西日本が逆転するのは、「稲作の伝来」である。次回はその辺りを読んでみたい。

 

  

       初蝉やひと鳴きをしてそれつきり

 

 昨日の朝、初蝉を聞く。去年と同じ日なり。

連れ合いの「西瓜」初収穫である。種類は小玉だが、なかなか立派。会心の出来で、おいしゅうございました。