巣立ち鳥

旅プラン作りとミステリー

 来週にも出かける手筈にした。初めは車を使っての近場でもという気もあったが、「もう何回行けるかわからんよ。行きたい所があるなら今のうちだよ。」というTの言葉を受けて新幹線を使っての旅にした。目的地は「しまなみ街道」で、今回は古墳ではない。国宝もあるが、メインは海の景色。晴れでなければつまらないと、ギリギリまで出立予定を思案したが、果たしてどうだろうか。

 ふらりと気まかせ足まかせで、大人の旅を楽しむ方も多いと思うが、当方は毎回きっちりと日程を組む習い。どうせなら目いっぱい観てきたいという貧乏根性か、昔の職業意識か、まあ、このプラン作りが楽しみでもあるからだ。あまり予定を詰め込過ぎると疲れると連れ合いに言われてからは、余裕をもたせるようにはしている。

 さて、今回も乗車時刻やら予約した宿泊ホテルや居酒屋、見学場所とナビ用の電話番号を記入して旅プランは完成。レンタカーの手配も済ませた。あとは切符の購入だけとTに頼んだのだが・・・。

 ところが、これが意外と大変。Tが駅に行ったら、「みどりの窓口」は長蛇の列。業を煮やして券売機でトライすればエラー。しかたがないから帰ってネットのスマートEXで苦労して買ってくれたが、これとて切符の受け取りには駅まで出向かねばならない。今回のように、複雑に乗り換えのある時は、切符を手にするにもひと苦労だ。

 これで万事完了といきたいところだが、実は当人が二日ほど前に体調を崩した。例の原因不明の発熱である。大きな手術をして以来、季節の変わり目に突然高熱が出る。大抵2、3日大人しくしていれば治るので、今はその最中で、なんとか出発までに完全回復としたいものと思っている。

 

休養中、読み勧めていたのは『書店猫ハムレットの挨拶』。ブログでの知り合いの小春さんに教えていただいたミステリー。凄惨な殺人事件のない軽いミステリーである。現代アメリカが背景で黒猫のハムレットが事件解決の手伝いをするという設定。同じシリーズが5冊ほどある。

 読んでいる途中で「犯人しか知りえない秘密の暴露」に気づいていたが、結果として正解であった。

 

 

 

       背丈はや父母を越ゑたり巣立ち鳥

 

 

  甘えん坊のモズくんも突然餌をねだらなくなった。うちのチビ殿も四月になって半分巣立ちである。

うちの桜がほぼ満開。

フリージャも。

 

 

本が読めないときの 『続窓ぎわのトットちゃん』 黒柳徹子

 豪雨の一夜が明けた。いつ以来か、リビングの暖房はエアコンだけ、ファンヒーターは点けなかった。今日は暖かさを通り越して暑そう。花粉の飛来も多いようだ。この所ずっと鼻炎がひどく、春の嬉しさの反面、辛い花粉症と、複雑な気分だ。

 ちっとも本に集中できないので、編み物に精を出したら、仕上げ段階で失敗。少し解く羽目になってこれもやる気をなくした。

 こういう時には、この本を。ベストセラーで予約者が多かったが、順番が巡ってきた。Tが「読書のリハビリかあ」って言ったけど、そうなんだ。読みやすくて考えなくていい。徹子さん、リハビリにしてごめんなさい。

さて、この本、徹子さんの天性の明るさやユニークさが伝わる本。戦争を含めて辛い体験や身に危険の及ぶこともあったのに、運も味方したような半世紀だ。ご本人も長所は素直で楽天的なことと親切なことだと書いておられるが、確かにそれが功を奏している。一時は嘆きの元になった個性的な喋り方さえも売りになったのだから。それにしてもお母様がすごい。あの動乱期を才覚で乗り切り、お父様の帰国前に赤い屋根と白い壁の洋館を建ててしまわれたというのだ。お母様の才覚とお父様の芸術性が、個性的な女優を産んだのかもしれない。

 この本には、戦争中の苦労がたくさん書かれている。「あとがき」で自身の戦争体験を書き残しておきたいとあったが、徹子さんにも厳しい戦争体験があったのだと、それがよくわかった。

 

 隣のモチの大木で子育て中のモズ君。おチビが終日チイチイと鳴いて餌をねだっている。体は小さいが、もう十分飛べるのに甘えん坊である。男の子で、お父さんモズがせっせと餌を与えている。

 そうそう燕ももうやってきたし、雲雀も鳴いている。春本番だなあ。

やっとわがやの桜と桃も開花。

 

 

            幼子の蝶よ蝶よと兄を呼び

 

 

春の雷

門出の報告

 かなりの雨の中を娘一家の来訪。正月以来だ。今回は下の孫が大学に入ることと、上の孫の就職先が内定したという報告だ。新しい門出はもちろん喜ばしいが、もうそんな歳になったかという感慨も深い。トシヨリの十年は変化に乏しいが、子供の十年は驚くほどの変化だ。十年前といえば、お風呂にお魚釣りを持って入っていたのに・・・。

 みんなでお祝いを兼ねた食事後、珍しく二つか三つ雷が鳴った。

 

 

    門出に(かどいでに)銅鑼打つごとし春の雷

 

 

連翹は満開

 

春疾風(はるはやて)

祭のごとく過ぎにけり

 異変に気づいたのは、朝ネットを繋げた時である。いつものようにまず、アクセス解析を見て驚いた。だいたい朝のうちはほどんど訪問者がないのが普通。ところが、朝から随分の訪問者、思わぬ外国(ウクライナ)からもある。いやいやどうしたのだろうとTに告げる。

 それで、はてなのサイトの「きょうのはてなブロブ」に取り上げられたことが判明した。すごい影響力である。俳句と読書感想と時々の外出記録。俳句は月次で取り上げる本はマイナー。どう思っても読んでくださるのは希少な方々と認識している。分けても欠かさずコメントを書いてくださる「ふきのとうさん」のような方は、本当にありがたく貴重な存在。

 石田波郷の句を思い出した。「春雪三日祭の如く過ぎにけり」祭のごとき一日が過ぎた。一過性の訪問者のうち、一部の方とはお付き合いができるかもしれぬ。こちらも閉じこもりがちな世界から少し踏み出してみようか。

 

 

         甘夏のドスンドスンと春疾風

 

 

 

 強烈な風の一日だった。今朝はうっすらと雪。

 

志段味古墳群を見に行く

 名古屋市守山区上志段味というエリアには古墳時代を通じて古墳が造られつづけ、66基もある大規模な古墳群となっている。庄内川河岸段丘上で、この川を利用して勢力を伸ばしたこの地の首長やその配下の人々の墳墓である。

 最大なのは「白鳥塚古墳」。墳長115メートルで愛知県下第三位の大型前方後円墳。最も古く4C前半の築成。大半が樹木に覆われているが、後円部に登れる。後円部頂部に石英が敷かれていたが、かっては墳丘全体が石英で覆われていたらしい。「白鳥塚」の呼び名もそこからきたと思われる。

 綺麗に整備されているのは「志段味大塚古墳」5C後半の帆立貝式古墳。葺石を貼り付け、円筒埴輪が復元されている。ここも墳丘に登ることができ、頂部に二つの埋葬部の印がある。

 周辺に小型の古墳がたくさんあり、芝の広場になっている。

 最後に寄ったのは「東谷山白鳥古墳」。時代が下って、6C末から7C初めの円墳。横穴式石室である。名古屋で唯一、完全な形の横穴式石室だとある。覗くと明かりが灯り説明も聞ける。

 東谷山の山麓にはまだあるようだが、おもなものは以上。

 発掘品を収めた「しだみ古墳ミュージアム」がある。最初に寄り、パンフレットや地図をもらった。古墳ばかり行きたがる気が知れんと言いつつ連れていってくれた家族に感謝。もっとも最近は連れ合いもその気が伝染って、群馬の古墳も見に行こうかと言い出した。

 

 

        鶯の初音聴き留む墳丘墓

 

春落暉

映画『パーフェクトディズ』を観る 

 言わずと知れたヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演の映画である。U-NXTで配信されるのが待ちきれず大雨の中映画館に出かけた。家族揃っての鑑賞で、初めての体験だ。

 さて、映画である。文句なくいい映画で、今も劇中の音楽を聞きながら、余韻に浸っている。

 毎日早朝に目覚め、日の出とともにトイレ掃除の仕事に出かける。仕事はきっちりと手を抜かず、木漏れ日の写真にこだわり、小さな植物を育てる。テレビやネットの情報に振り回されることもなく、労働の後は少し飲み、就寝前には静かに読書をする。「丈夫な体を持ち 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている。」平山とはそんな人物。

 全くの推測でしかないが、ヴィム・ヴェンダーズは「禅」にもかなり造詣が深いのではないか。思い浮かんだのは「日日是好日」という言葉。玄侑さんは「日日是好日」について、昨日と今日は「基本的に関係ない。昨日と関係なく新しい一日に出逢ったのだから、それが雨であろうと嵐であろうとみな新鮮で佳い日なのである」と説かれる。一日一日がパーフェクトデイ。明日とか昨日にとらわれず、「今」することを楽しめとも。そう言えば「いつかはいつか 今は今」という平山の言葉もあった。

 挿入曲は、音楽音痴の私にもどれも良かった。最後、平山が運転をしながら聞く曲「Feeling Good」は平山の気持ちを代弁するものであり、彼の法悦とも見える喜びに満ちた笑顔や潤んだ瞳とともに、実に感動的であった。

 なかなか渋いと思ったことが一点、濡らした新聞紙をちぎって撒き、埃を抑えながら掃除をする場面。昔、やったなあと感慨深かったが、あれはいつ頃までのことだったろうか。脚本はヴィム・ヴェンダースと高橋卓馬とあったが、あれは高橋氏の体験だろうか。

 平山の暮らしは、情報の波に振り回され、ものにまみれた私たちの暮らしと対極にある暮らしだ。あまりに多くを望みすぎて、日々の暮らしを楽しむことを忘れているのかもしれない私たち。平山はそんなことを教えてくれた気がする。

 

 

       雨上がり野のさえざえと春落暉

 

 映画館を出たらさすがの大雨が上がっていた。畑に水が溜まるほどの降りだったようだ。

 

ハナニラ

春の夢

『隆明だもの』 ハルノ 宵子著

 久しぶり自前で購入した本。ハルノさんの本の面白さは『猫だましい』ですでに納得済みだ。Tと連れ合いと三人で回し読みするつもり。

 昨日の朝日の読書欄の平川克美氏の書評に立派なことは書かれいるので、ここではどうでもよい感想だけ触れたいと思う。

 私たちの学生時代は、吉本さんは今の「推し」のような存在で、「言語にとって美とはなにか」とか「共同幻想論」とか、随分流行っていた。連れ合いなんかも読んでいたようだが、私はちっともわからなかった。後年、Tが吉本さんを「推し」にして、うちに吉本本が溢れてからはわかりやすいものを多少読んだくらいである。

 そんなこんなで吉本さんと言えば、武骨で硬派な知の権化というイメージから、ネコ好きでおだやかな庶民的知識人へと変わってきたのであるが・・・。そして、この本である。ここには老いて手がかかるようになった吉本さんが、いっぱい書かれている。人は誰でも老いていく。当事者には深刻で介護者にとっても大変なことなのだが、端から見れば、なんと笑えてしまうのだろう。ハルノさんの文章を通して、いっぱい笑った。そして吉本さんでもこうだったのだと安堵もした。

 この本の中には、吉本さんは脚の出る講演もいっぱい引き受けたとあったが、多分昔連れ合いたちが頼んだ大学祭での講演もそのたぐいだったにちがいない。田舎の学生の依頼を引き受けるか迷っておられたら、端の奥様が「せっかくだから引き受けてあげたら」と助け船を出してくださったらしい。「お母ちゃんは外には優しいがうちにはきびしいなあ」とおっしゃっていたらしいが、その一例だったかもそれないと思うことだ。

没後すでに12年。命日は3月16日とある。

 

 

       たまさかに五十六年春の夢

 

 

 本日、結婚記念日。いつの間にやら56年経ってしまった。「花束」なんか一回ももらったことがないと、この前愚痴ってやった。まあ健康だけが「花束」と納得するしかないか。

 

ネモフィラ