蕗味噌

冷たい雨の一日

 雨の日は落ち着いて厨仕事ができる。まあ年中暇人だからいつだってできるのだが…。マーマレードは最近6回目を作ったばかりなので、今日は冷凍をしておいたフィリングでアップルパイをおやつに。昨日笊いっぱいに蕗のとうが採れたので蕗味噌も煮る。蕗味噌を作るとこれが好きだった父のことを思い出す。

あと今日は山田太一さんのドラマ「今朝の秋」を観るつもりだったが、止めた。昔テレビで観て大泣きした記憶があり、躊躇したのだ。代わりにだらだらとネットで宿を調べて、時間を費やした。暖かくなったら出かけよう、今はそれが 目当てだ。

 

 

       遠慮しつつ父の催促蕗の味噌

 

 勤めと子育てでいつもバタバタしていた娘に、遠慮がちだったなあと思い出す。

 

 

下萌え

『ペンギンの憂鬱』 アンドレイ・クルコフ作 沼田恭子訳

 ウクライナの作家である。この本はロシア語で書かれたらしいが、最近の執筆はウクライナ語に変えたと新聞で読んだ。1996年の作で舞台はソビエト連邦の崩壊後。独立はしたものの国家的には混乱が続き、汚職や腐敗があり、マフィアが暗躍していた時代らしい。

 もちろん、この寓話めいた不思議な話は、そんな時代を背景にしている。

 憂鬱性のペンギンと暮らす売れない小説家のヴィクトルは、売り込みに訪れた新聞社から、「死亡記事」を書くことを勧められる。そのうちまだ亡くなっていない人の追悼記事をあらかじめ書くという仕事を任され、指定された著名人の追悼記事を書きづづけていると、対象となった人物が次々亡くなったり、彼のために人を殺してやったという男も現れる。その男の娘を預かったり、突然身を隠すように言われたり、知らないうちに誰かに勝手に部屋に入られたり、ペンギンと一緒に見知らぬ人の葬儀にでさせられたり・・・読者もヴィクトルの不条理に付き合うこととなる。

 それでどうなったか。それは最後まで読まないとわからない。いや、最後まで読んだからといって全部わかったわけでもない。欧米各国でベストセラーになり、何かの暗喩ともみられたようだが、ただの読み物としても面白かった。

  この戦争で知ったウクライナの地名がいくつか出てきて、おやっと想った。ロシアの侵攻から二年、先行きの見えぬ現状に心が重たい。

 

 

       尾を振りふり鴉の我が世下萌ゆる

 

 

 鴉を見ているとその自信ありげな悠然とした姿をからかいたくなる。側から見れば、こっちが馬鹿に見えるのだが。雨近し。剪定をのびのびにしてきた連れ合いは芽が動き出すと気が気でない。例年なら3月10日ごろに咲き出す我が家の遅い紅梅も、もう咲きそうだ。このまま暖かくなればいいのだが、また寒くなるというから花もびっくりするだろうな。

 

春一番

道長ものがたり』 山本 淳子著

 今話題の「藤原道長」についての本である。巻末にきちんと年表も参考文献もついた学者の方の書であるにもかかわらず素人が読んでも実に面白かった。もちろん書かれるのはテレビとは一線を画した道長の実像だ。

 道長藤原兼家の三男だが、左大臣源雅信の倫子(テレビでは黒田華)に婿入りしたことから幸運は始まった。(平安期の結婚は男が女の元に入る婿入り婚)道長自身も「男は妻柄なり」と正直だ。さらに二人の兄の早世や甥たちの不祥事で思いがけなく公卿第一の地位に三十歳で就任、以後着々と階段を登り、栄華を極めた。倫子となした四人の娘はすべて入内させ、三人が中宮となり、三人の天皇外戚となった。

 全く運が良かったのだが、運ばかりでもなかった。悪辣なことに手を染めたりはしなかったようだが、それなりに姑息な工作や意地悪はした。それがこころの重荷になり、さまざまな怨霊に悩まされたのも事実だ。晩年病がちになり、娘を失ったりしたのも、怨霊の祟りだと慄いている。

 この本には同時代の「紫式部日記」「少右記」「権記」などに記された道長像を紹介しているが、愉快なのは「紫式部日記」の伝える妻倫子に頭の上がらなかった道長像である。

 彰子が産んだ敦成親王の誕生五十日の祝の宴のあと、上機嫌な道長が家族の前でこう語ったという。

 「中宮の父さんとして、まろはなかなかのものだ。また、まろの娘として、中宮はなかなかでおられる。母もまた、運が良かったと思って笑っておられる様子。いい夫を持ったことよと思っていると見える。」

 手放しの「我ぼめ」に妻倫子は不愉快そうにぷいと席を立ったという。倫子にしてみれば、運がよかったのは彼女ではなく、自分を妻にした道長の方なのであると言いたかったのだ。道長は倫子のこの態度に気づくと、「お部屋までお送りしないと、母はお恨みになるからな」と言い訳しながら、あたふたと彼女の後を追ったとある。

 さて、道長紫式部の関係である。歌の贈答があり、これを恋の歌に入れたのは定家であるらしい。二人の間に秘めたる何かがあったか。「少なくとも彼女の側には、道長を想っていた形跡が窺える」と。しかし、たとえ関係があってもそれは一時的なもので、知的なブレーンの一人として道長体制を支えることこそ彼女の誇りだったようだ。テレビドラマのように道長の想い人だったとはとうてい考えられない。

 道長は享年62歳だが、妻倫子は享年90歳、第一の娘彰子は享年87歳。今と比べても破格の長寿である。やはり彼の運を支えたのは女達だったのかもしれない。

 

 

      てつぺんに巣を構えたり春一番

 

 

水仙が咲き始めた

啓蟄

陶片と古墳、グラスアートを見に

 春めいた陽気に誘われて久しぶりにお出かけ。東濃の土岐市と多治見市である。

 土岐市美濃陶磁歴史館が、このたび建て替え前の休館に入るということで、収集の陶片2000点の展示会を行っている。

 土岐市の元屋敷という古窯は荒川豊蔵に発見された安土桃山時代の窯跡である。16世紀末から17世紀初頭まで、当時の茶人にもてはやされた「美濃桃山陶」の中心地であった。跡地から出てきた大量な志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒はかってのゴミだが、今や歴史を語る重要文化財である。

 失敗作(ゴミ)といってもどこがと思うような完成品もある。花器・茶道具・茶懐石の器がほとんどで渋味の色合い、斬新で飄逸な文様、歪んだ形など今に繋がる美意識が溢れている。

 歴史館の近くに古墳が二基あるというので、歩いて見に行く。

段尻巻古墳(円墳)

乙塚古墳(方墳)

 

 飛鳥時代(7世紀前半)の方墳と円墳である。方墳は美濃地方最大級の横穴式石室をもち、円墳もこの地方最大級である。被葬者はこの地方の当時の豪族であろう。どちらも芝がはられて綺麗に整備されている。

 昼食に「道の駅・どんぶり会館」へ。やや高地にあり、御岳の雪嶺が見事。店ではいつものように味噌ではなく、珍しい醤油と枝豆の種、鍋敷き、手作りパンを購入。

 帰り道にあたる「岐阜県現代陶芸美術館」による。ここは二回目の訪問だ。今は「フィンランドのグラスアート展」を開いている。戦前から現代までかなりの量の作品が来ている。これはまあ、美しいというしかない。

 ショップで多治見の若手作家さんの「猫皿」を買う。物を増やさないつもりなので、さんざん迷っての購入。幼稚だと笑われそうだ。

 

     啓蟄や掘り出されたる志野織部

 

 

春の風

近頃観た映画

 ヒューマンドラマというのは、「よかったなあ」と思うだけであまり何かを語りたいものではないが、最近観た二本の映画について記録のためにメモすることにした。

『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』

 2015年公開の邦画。ただし監督は台湾人のチアン・ショウチョン(女性)、主演は永井博美。

 四歳の時父母の離婚で別れた父親を、彼が住んでいた海辺の廃屋を改装したカフェで待ち続けるという話である。観終わって気づいたのだが、ロケ地が石川県珠洲市の木ノ浦海岸。調べると当然ながら今回の地震で大きい被害があった地域のようだ。映画のモデルになったカフェは倒壊を免れたようで、地域の人の憩いになっているらしい。よかった、よかった。美しい海の景色とカフェ、平常に戻ったら訪ねてみたいところだ。

 

『コーダあいのうた』

 2021年公開。アメリカ・フランス・カナダの合作映画。アカデミー賞三冠受賞。

 コーダというのは耳の聞こえない両親に育てられたが聴力に問題がない子供を言うらしい。最近までこの言葉を知らなかったのだが、NHK社会派ミステリードラマ『デフ・ヴォイス』で初めて知った。このドラマでコーダを演じたのは草薙君で、実になめらかな手話の演技で驚きもし、感心もしたのだ。このドラマではろう者俳優が当事者を演じていたのも良かったが、映画の方も父親役でアカデミー助演男優賞をとったのは有名なろう者俳優ということだ。

 コーダとして家族の耳代わりで働く娘が音楽的才能を見出され、家族のためか自分の道かその選択に悩む話である。難しい選択だったが、ヒューマンドラマだからすべてはうまくいった。

三島由紀夫でないが、ハッピーエンドでない映画は観たくないから、(三島がこう書いていたらしい)これでよかった。

 

 

        スニーカー洗ふ陽だまり春の風

 

 

 朝のテーブルで連れ合いと家に来たことのある鳥の名前を書き出した。雀から始まって先程思い出したのも入れると29種類。隣に川があるので水鳥もある。一回だけ来たのはキレンジャク南天の木に来たのをノラッチ(当時いた猫)に一羽がやられて可愛そうだった。

同じピラカンサの木。あんなにあった実を冬が終わるとともに食べ尽くした鳥たち。

春寒し

『歌枕』 中里 恒子著

 岡武さんがブログで取り上げていた本。どんな文脈での紹介だったかは忘れた。

 古風な文体と筋書である。初めての言葉がでてきた。肉池とは前後から予想ができたが、黄白とはいったいなんだろう。お金のことを言うそうで、初耳である。麦藁手の本歌というのもあった。麦藁手も本歌もわかるが、麦藁手の本歌となるとわからぬ。本物ということかと勝手に想像する。

 骨董に入れ込みすぎて禁治産者となり、本宅から放逐された老年の男と、彼を慕って付いてきた三十も歳の離れた女の話だ。七年という歳月を世間から離れてひっそりと暮らした二人だが、ある日突然出先で男は倒れ、そのまま死んでしまった。当然だが、女は別れを告げることも葬式に並ぶこともない。男の身内からわずかばかりの手切れ金を渡され、住まいを出ていくように促される。女は男の思い出を葬り去ろうと、位牌の代わりに男の遺した花生に花を入れ、ひとりの弔いをする。そして、生前男がほのめかしていた仕覆の仕立てで、ひとりで生きていこうと決意するのだ。

 哀しい話である。歳の差をこえた男女の愛というより、男を失った後の女の矜持に、ほろりとさせられる。僅かな手切れ金も固辞し、思い出だけを胸に、独り立ちを決意する女の姿は今では考えられぬ古臭いものかもしれぬ。古臭いものが古い文体に相まって、これはこれでなかなか読ませられた。

 

 

        嘘にまた嘘塗り重ね春寒し

 

 

  風もなく日差しもあると、かかりつけ医に出かける。よたよた歩きながら、春をみつけるのも今日の課題。たんぽぽは畦に一輪、遠目に菜の花の盛り。イシダダキのつがいのおいかけっこ、野中の白梅。

 

春の雪

『灰色の魂』 フィリップ・クローデル著 高橋啓

 話は、1917年。ドイツとの国境に近いフランスの片田舎での殺人事件から始まる。川面に浮かんだ被害者は村の料理屋の十歳にも満たぬ末娘。「べっぴんさん」とも「昼顔」と呼ばれた妖精のように美しい少女。

 いたいけない少女を殺めたのは誰か。背景には1914年に始まったドイツとの戦争がある。峠の向こうには硝煙が立ち上り、街道には前線に向かう兵士の隊列と送り返される傷病兵が溢れている。

 シャトーに閉じこもり、孤独に職務だけを遂行する検察官。欲望にまみれ庶民など糞としか思わぬ判事、出征した前任者に代わり村の小学校の教師になった美しい若い女性。そしてこの物語を一人称で語る「私」などなど。

 いくにんかの癖のありそうな人物を巻き込んで話は進むが、謎めいた筋書きと装飾過剰とも思える古めかしい文章のこれは、一体ミステリーであろうか。みすずの編集者は、これは「文芸ミステリー」だという。読むきっかけになった豊崎由美の書評では「味わい深い豊かで内省的文体を備えた」ミステリーとしてこの本を紹介している。

 ジャンルはどうであれ、ともかく久しぶりに面白かった。

「こんなことを書いて、いったいなんの役に立つ、書く。ただそれだけ。まあ、自分に語りかけているようなものだ。私は私と会話する。過ぎ去った時代についての会話だ。数々の肖像画の保管、自分の手を汚さずに墓も掘る」

 書きての私の独白。わかるなあ。ちなみにこの本は2003年から2004年、フランスでのベストセラーだったらしい。

 

 

 

          赤い実に鳥喧し春の雪