「わきまえた 私」
この五日ばかり原因不明の体調不良となり、PCR検査まで受けるはめになった。幸い陰性でどうにか回復してきたが、せっかく戻ってきた体重をまた2キロも減らしてしまった。
さて、書こうと思ったのは病気のことではない。今日の朝日新聞に作家の藤野可織さんが「あの日、わきまえた私」という題で寄稿されていた文章についてである。
それは、藤野さんがタクシーを利用された時の話である。壮年で元気な運転手さんがこう言ったというのである。
「最近なにかというたらすぐセクハラ、セクハラですなあ。・・・そんなこといちいち言うてたらこっちはなんも言えへんやん。・・・せやしこっちはこれまでどおり言いたいことは全部言うてまっせ。」
これに対して藤野さんは自分の考えとは違う、何か言わなければと思うのだが、密室空間で大声の運転手と争うことも怖くて何も言えなかった。そして、
「私はずっと怒っている。何も言えなかった自分に対して憤怒している。私は恐怖でかんたんに黙ってしまう人間だという事実が、私を蝕んでいる。」
と臍を噛むのである。
この文章を読んで、私も自分の間違いと弱さを思った。以前にも書いた差別された場面である。恨みがましくて恐縮だが、もう一回書くと、ある人権に関する大会の準備会議の時だった。会長は、「受付と接待は、若い綺麗どころにお願いする。後の人は会場設営をお願いしたい」というようなことを言われた。そういう考え方にその時むっとしたのだが、私は黙っていた。異議を唱えて会議を嫌な雰囲気にしたくないという下心があった。私は「わきまえた大人」だった。本当はあの時言うべきだったのだ。
「お茶出しや受付などの楽な仕事は高齢の者で行い、設営など力仕事は若い人にお願いしましょう」と。自分は進んでいるつもりでいたのに大間違い。いつもわきまえてきたなあと反省する。内なる差別である。偉そうなことは言えない。わきまえずに言える人は、立派だ。
春疾風水面走りて軽鴨(かも)飛翔
あぶないよ。
眠いのにごめんね。
白梅が満開です。
いつの間にか子どもが一匹に。
じいさんと仲良しのモズくん。