惜春

『洟をたらした神』  吉野 せい著

 図書館の閉架からこの古びた本を借り出してきたのは、先日読んだ梯さんの本がきっかけだ。

吉野せいさんは、裕福に生まれながら詩人で理想主義者とも思われる貧しい開拓農民と結ばれ、一生のほとんどを厳しい農作業に従事した。夫亡き後71歳にして初めてものを書き、その結晶が第6回大宅壮一ノンフィクション賞と第51回田村俊子賞を受賞した。即ちこの本である。

 人をぐいぐいと惹きつける力のある文章で、息もつかせぬような筆致は読む者の胸にきりきりと突き刺さってくる。筆者の人生の記録ともいえる16篇の短篇はどれも珠玉の逸品で、読みながら私は何度目頭を熱くしたことだろう。こんな作品は久しく出会ったことがなかった。この古びた本が18版であることからしても、一時は多くの人に熱い想いを抱かせたにちがいない。

 先に書いたとおりどれも珠玉の短篇だが、あえて選ぶとすれば本の表題にもなっている「洟をたらした神」である。

 著者の子とおぼしき数え年六つの男の子、ノボルは、めったに仲間の遊びに入れない。それは畑仕事が忙しい親たちに代わって、小さい背中に妹のリカがくくりつけられているせいだ。貧しい暮らしの中で、玩具というようなものは買ってもらったことがないが、いつも根気よく何かを作り出す。青洟をすすりながら「ノボルのつくる竹とんぼ、これは至極すばらしい。」竹とんぼだけではない。独楽も作る。みんなにバカゴマと軽蔑されても自分の手で根気よく作り出す。その彼がある日、重たい口で母に二銭がほしいという。ヨーヨーを買いたいというのだ。初めてねだったいじらしい望みに母は応えてやりたいと思う反面、二銭の価値を考える。

「二銭の価値は、キャベツ一個、大きな飴玉十個、茄子二十個、小鰯なら十五匹はは買える」「ヨーヨーなんてつまんねえぞう。じっきはやんなくなっちまあよ・・・」

母の言葉を聞きながらまつげをしばたたしていたノボルは黙って外へ出ていった。その姿を見て母親は何となく不安にかられる。もしや臍を噛むようなことが起こりはしなかと案ずる。

しかし、その夜の小家は「珍しく親子入り交じった歓声が湧き起こった。」ノボルが小枝のくびりを活かしてヨーヨーを作り上げたからである。

ここまで読んで、私は、母親の切なさやノボルのいじらしさ、そしてその後の明るい救いに、涙を禁じえなかった。

筆者は大賞受賞後3年ほどで亡くなっているが、最晩年に大輪の花を咲かせられたことは、他人事ながら嬉しいことだ。故郷のいわき市には彼女を顕彰する「吉野せい文学賞」もあると知る。

 

 

 

 

         惜春や撤去決まりし橋渡る

 

 

 

 

 いつも散歩で渡っていた橋が老朽化のために撤去されることになった。この下流(しも)百メートルばかりにある古橋も撤去された。車の通れない橋は今は不要とみなされるのか、撤去のみで新造しないということだ。

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