雪解

『むすんでひらいて』 玄侑 宗久著

 Tから回してもらったものだが、なかなか難しくて半分もわからなかった。

玄侑さんに、哲学が専門という大竹さんがいろいろたずねるという形式で、書かれた本である。「いのち」とは何か、「死」とはどういうことなのかと、おぼろげながら自分なりの理解が出来た程度で、これでいいのかわからない。わかったことを書けばいいとTに言われて、わかったところまでを記録しておこうと思う。

 玄侑さんは戒名の頭に「新帰元」と書かれるという。「元気(生命エネルギーの本体)に元気を与えられて生きてきた器の寿命がつきたので元気に帰っていく」という意味。つまり「死」とは「ある種の生命エネルギーがエネルギーの本体に還るようなイメージ」らしい。

 いのち(存在)の最小単位は量子力学的にいえば「粒子」であり「波」あり、「死」は粒子から波への移り際かもしれない。いずれにしろ「死」で微塵の粒子になった存在は宇宙の渾沌としたエネルギーに還っていくようだ。この生命を産み出す渾沌としたエネルギーを東洋では「気」と名付けた。「気」は「目に見えないが確実に命あるものを生かしめ繋いでいる」もの。この「気」というものは今は学問の対象だという。

 肉体の死によってすべてはなくなるのか、逆に永遠不滅の存在があるのか、お釈迦様(ブッタ)はどちらでもないと説いて、それは瞑想を深めて体験するしかないと言われたらしい。玄侑をさんもほんとうの理解にはヨーガや坐禅による深い禅定から生まれた体験的認識しかないと言われる。

 ならばわれら凡人には救いはないのか。そこに出てきたのが物語だという。念仏を唱えることで救われるという阿弥陀様の物語は、浄土真宗の信徒にとっては安らかな心と死をむかえるための「物語」である。

 あまりにも中途半端な理解で情けないが、今はこんな程度である。

 

 

       伊吹嶺の雪は解けたり夜半の雨

 

 

  いつの間にか伊吹山の雪も谷筋だけになっている。明日もまだ寒いようだが、春は着実。わが家の紅梅もほぼ満開。