春日和

『砂のように眠る』  関川 夏央著

 関川夏央氏が好きである。岡武さんのブログで知って、図書館の閉架から出してもらった。副題に「むかし『戦後』という時代があった」とある。戦後・・・1950年代後半から70年代始めまでの時代風景の概観である。

 小説と評論の抱き合わせで、構成としてはめずらしい。小説は著者自身を投影したような、ややペシミスティックな人物の一人称がたりで、評論の対象となるのは次のものだ。

 『山びこ学校』・石坂洋次郎作品・『にあんちゃん』・小田実『何でも見てやろう』高野悦子二十歳の原点田中角栄私の履歴書

 小説も評論対象作品もまずは懐かしかった。

 小説では、関川氏とは四歳違いだから、厳密にいえば同じ時代ではないが、ほぼ同時代の空気感だ。都会に出てからの話より田舎の中学高校時代の話は、全くうべなうばかり。部室の隣の柔道部の練習場の匂い立つ臭さや、共産党シンパだと聞いていた若い英語教師のいけ好かない挑発的態度もありありと思い出した。

 評論では『二十歳の原点』である。存在は知っていたが、この本は読んだ覚えがない。高野悦子は四歳下で、この本が話題になった頃、青春を脱した当方は、既に子持ちであった。しかし高野が影響を受けたという奥浩平を大学時代に読んだ覚えはある。

 高野は何に悩んで自死を選んだのか。同年である関川氏は、寄り添った眼差しでこう書いている。

「いつの時代の学生たちでも、十九はたちの頃にはこんなことを思ってみたりするのだろう。自分が自分であることがうっとうしくなる。自分が死ぬまで自分でしかない、死ぬまで他人になれないかと思うとうんざりする。(しかし)、ときに投げやりな気分に陥りもするが、なにかの気晴らしによって危機を脱する。彼女の場合、めぐりあわせが悪かった。やたらに騒々しいばかりで内実をまったくともなわなかった時代そのものに、秤を不運の方に傾けるわずかばかりの悪意があった」と。

確かに生硬な言葉と気負った意識、「爪先立ったままでどれだけ歩けるかというコンテスト」ような時代だったかもしれない。あの頃何にあんなに気負っていたのか。それがあの時代のスタイルだったというのは、あまりにも軽々しいだろうか。

 

 

        棟上げを終へて車座春日和

 

 

 うちの辺りは新築ラッシュである。トシヨリはどんどん耕作をしなくなったし、市街化調整区域になったせいもある。たいていは今風の工場仕上げの家だが、時には棟上げの日本建築もある。

イオンモールも近いし、病院は多いし、災害も少ない気がする好地だ。

 連れ合いが頑張って柿の大木3本と木蓮の大木1本の剪定を終えた。八十にならんとする今年もやり終えたということで、まずまず祝着至極。ご苦労さまですと素直に労う。あの時代以来、半世紀を越えた同志だ。