法師蝉

「昭和史1926−1945」 半藤 一利著

 腹立たしさを通り越し、情けなく悲しさきわまる読後感である。

 おおよそは既知の事実だが、三百十万ともいわれる命で購った戦いが、ここまでいい加減な成り行きであったとは。

 初めて知ったことだが、幾度も止めるチャンスはあった。無謀な戦争は止めるべきだと主張する人もいた。戦争の結果が、勝利で終わらないという考えは、大方の指導者の認識でもあった。それでも杜撰な楽観的希望的観測で突き進み、あまりにも無残に破れた。

 参戦を選んだのは軍部だけではなかった。国民も熱狂し、マスコミも囃し立てた。愚かな興奮の坩堝は敗戦が濃厚となるまで続いた。

 半藤さんはこの本のむすびで、歴史から学ぶ教訓の第一に、「国民的熱狂をつくってはいけない。」をあげている。今日の朝日新聞の記事「戦艦大和の母港・呉を訪ねて」では、破滅へのサイクルを回す「空気」を生む条件に、①国民への生活への不満②他国への敵意(清沢洌・「暗黒日記」)を紹介していた。嫌な空気を間違った方向に向かわせないこと、これはひとりひとりが覚悟しておくことかもしれない。

 

 

     

        終活はまだ半ばなり法師蝉

 

 

 先週末は、また孫が勉強に来た。この暑さの中、なかなかひとりで何時間も集中するのは無理のようだ。昔、エアコンもない時代には無理もなかったと今更言い訳。休み中に数Ⅱの問題集を仕上げると賭けをしたことを思い出す。旧友はやり遂げたと言うが、自己記憶では賭けに負けた記憶だ。

いずれにしても、いまでも法師蝉の声は「もういいかい、もういいかい」としか聞こえない。もう、何を焦ることがあろうという歳になったのに。いや、人生の締めくくりが「もういいかい、もういいかい」ということかしらん。

 

 

 白芙蓉