夏の雲

東京焼盡』 内田 百閒著

 その2

 食べるものはともかく、百閒さんにとっては何よりもお酒が乏しくなったことは痛手であるのは、前にもふれた。薪も同様で風呂をたてることも難しくなり、半年ぶりに風呂に入ったという記述がある。炭もなくて火鉢もだめだとあるが、炬燵で寝込んだ話もある。炬燵の熱源は何だったのだろうか。情報は、もらったラジオがよく故障して難儀しておられる。ラジオがないと敵機の侵攻方面がわからないのである。しかたがないのでご近所に聞くしかない。新聞はどうだったか。久しぶりに熟読したとあるから配達はされていたようだ。電車は運休しながらも意外とちゃんと動いていたようで、これには百閒さんも感心されている。

 身近まで被害が及ぶにつれ、自宅も時間の問題だと思った百閒さんは、自作本や漱石の初版本、両親の写真などを会社のビルの引き出しに疎開させる。持ち出し荷物もいくつかにまとめて玄関近くに並べる。

 5月17日、いつも世話をしてくれる古日さんと久しぶりのお酒で気持ちよく酔った翌日、大空襲となった。自宅も危うくなり、奥さんと一緒に荷物を両手に逃げ回っておられるが、飲み残しの一合のお酒も一升瓶のまま持っておられ、途中も苦しくなるとちょびちょび飲まれたようだ。それが、そんなにうまかったお酒はなというほどだったらしい。お宅は夜半頃にとうとう燃えてしまった。

 焼け出されてからはお隣の大きなお屋敷の塀の側の三畳ばかりの小屋を借りられるが、何しろ小屋なので電気も、お勝手も憚りもない。だが、雨露はしのげると案外明るい。もともとなかったものも(例えばピアノ三台ソファ一組など)焼けたことにしようと、奥さんと冗談を交わしたりされてはいるが、食べるものは日に日に窮乏、二人共体調は良くない。

 だんだん日本中の都市が爆撃される。7月11日は岐阜12日は各務原の記録もあり。

「何人がこんな事をおこしたか。決して国民の所為ではない」とも、故郷の岡山空襲を聞いて「記憶の中の岡山は焼くことは出来ない」とも。

 そして「終戦終結詔勅なり。熱涙滂沱として止まず。どう云う涙かといふ事を自分で考える事が出来ない。」と・・・。

「濡れて行く旅人の後からはるる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだろう。」

 この日記は8月21日で終わる。

 この本には焼死者や戦死者の話はほとんどでてはこない、だが戦時下での普通の人々の日常がどんなものであったかは、詳細にわかる。戦争を仕掛けた方がもちろん悪いが、民間人をかくまで殺す必要があったのか。なぜもっと早く降伏出来なかったのか。オリンピックもそうだが、走り出したら止めるということが出来ないのか。コロナ禍ゆえにいっそうにそんなことも考えさせられた。

 

 

 

           舟伏山権現山や夏の雲