寒九

『老いの身じたく』  幸田文著 青木奈緒

 家事の途中、喉が渇いたからとごくごく水を飲んで、ああ美味しいとおもったのは久しぶり。今日はやや暖かく、水の冷たさが気にならぬ。飲んでいるうちに「寒九の雨」という言葉を思い出し、カレンダーで確かめれば、「寒九」は昨日だ。この雨は昨日から降り出したから、まさに「寒九の雨」と思えば何となく嬉しく、カメラを持って雨しずくなどを撮る。「寒九の雨」は吉兆のしるしでその年は豊作だと昔がたりにいうことだ。

 昨日は半年に一回の総合医療センターでの診察日。問題はなく「大きな手術をされたのにお元気でなによりです」と言われる。五回もすったもんだしてから三年半。「もう少し追いかけて見ていきましょう」と先生。まあ、癌を見張っていてもらえるのだから、ありがたいことだ。システムが変わって、待ち時間が見える化したのは助かる。漫然と待っているのと、気分的に違う。

 病院での待ち時間も含めて、今読んでいるのが上記の本。こういうのは一気にがつがつ読んで終わりにするのでなく、美味しいものを味わうように読みたいものだ。「老い」と言われてもまだまだ若い頃の文さんの述懐である。いくつか心に響いた言葉はノートに書き記して、こちらの「老い」の手引きとしたい。

 そう言えば、今日はEテレ「こころの風景」で渡辺京二さんの話を聞いた。先月末に亡くなったので、その追悼番組である。渡辺さん自身の語りで生涯を振り返る構成となっている。話からも生涯、民衆という立ち位置を大事にされた方だなあと思った。

親鸞に興味をもった渡辺さんは「阿弥陀さん」についてもこう語られる。

 親鸞さんが惹かれた阿弥陀さんは一体何だ。阿弥陀さんはこの世の実在の世界じゃないのか。山や川や風や花や・・・われわれはこの実在世界にほんのちょっとだけ滞在を許され、ひとつの実在として肯定されているのじゃないか。つながっていく命のひとつでいいなあと思った時に、阿弥陀さんは出現する。それが親鸞さんの出会った阿弥陀さんじゃなかったのか・・・

 

 

                    

                 土に身に寒九の水のしみとおり