大根

邪馬台国再考』 小林 敏男著

 この本は、邪馬台国(最近はヤマトコクとよむのが一般的らしい)について文献史学の立場からアプローチしたものである。

 邪馬台国については従来より九州説と近畿説があり、様々な論争と検証がなされてきた。これらの論争への一つの新しい視点として、本書では、「邪馬台国」と「ヤマト国」を別個のものと考える。もともと二つのヤマトがあった。つまり「ヤマト国」すなわち女王卑弥呼の国は北九州山門地方にあり、「邪馬台国」は大和地方(巻向)にあったとする考え方である。さらに紀年の研究から卑弥呼と同時代の初期ヤマト政権(邪馬台国)の統治者は崇神天皇ではなかったか、とする。

 以上のような結論を導きだすために「魏志」だけでなく、兄弟書ともいわれる「魏略」や「広志」という史料なども広く読み込まれて、卑弥呼の国は「伊都国」の傍らにあったことを論証されているので、気になる方はぜひ自分で読んでいただきたい。私としても漢文の「魏志」を傍らに、詳細に眺め尽くして、改めて「邪馬台国」という国名が出てくるのはたった一箇所だけだということに気づいた。それも「伊都国」までの詳細な里数に比べると、とんでもない日数による到達記録であり(筆者はこれは倭人からの伝聞情報だったからだろうとしている)「投馬国」と共に戸数は格段に多いのに情報は不確かである。おそらくこの二国は大陸からの使節が訪れた九州地方より、はるかに遠方だったことは確かである。

 問題は「邪馬台国女王之所都」(邪馬台国ハ女王ノ都する所)という記述のあることだが、筆者はこれは「魏志」の筆者陳寿の二つの「ヤマト」の混同による「史料の操作」ではないかとみている。

 先に読んだ『日本史の論点』にもあったが、卑弥呼の時代に九州地方だけでなく各地に多くの権力体が存在したことは、今日では自明のことである。とくに巻向遺跡は同時代では群を抜いており「七万戸ばかり」を有するという「邪馬台国」にふさわしいかもしれない。なお同じく九州より遠方にあり五万戸ばかりを有する「投馬国」は出雲ではないかという説が紹介されている。

 

邪馬台国論争」などというのは、関心のない人にはなにほどのことではないだろうが、大学時代史学の先生に火をつけられて以来、私には興味の尽きない問題である。もちゃもちゃと史料を拡げて読んでいたら「お勉強も大変ですな」とTに冷やかされてしまった。

 

 うまく眠りにつけないことがあるので、毎日三キロぐらいは歩くようにしているのだが効果のない日もある。昨夜はえんえんと「らじるらじる」を聞いた。全くトシヨリは厄介である。

 

 

 

 

       大根の競つて背伸びしたりけり

 

 

 

 

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このとこ連日大挙してムクドリヒヨドリがやってきます。モチの実を食べにくるのです。喧しいことこの上なし。加えて、ウンチをところかまわず落とし閉口します。