山眠る

空海の風景 下』 司馬 遼太郎著

 読了をして「空海」とはいかなる人だったのかと、改めて考えている。むろん司馬さんの描いた空海を通してでしかない。「宗教者・僧」という言葉では括りきれない「したたかさ」がある。自らが「宇宙」そのものに化したという天才で、司馬さんの言葉で言えば「日本の歴史の中で唯一民族社会的な存在ではなく、人類的存在だった」ということらしい。その上で「胡散臭さ」がつきまとうとも。また、解説では大岡信さんが(この解説が素晴らしい)「おそろしく抽象的で妖艶で脂ぎっていて虚空そのものであるような存在、零の無限大そのものであるような存在」とも書いている。こういう詩的ともいえる表現に平凡な人間は驚くしかないが、それが奇異と感じさせぬほど「空海」は一筋縄では語れぬ人物のようだ。

 下巻で空海は唐で恵果から「密一乗」を譲り受ける。出会ってわずか三ヶ月の内にである。四ヶ月後の恵果の死に臨んでは門人数千人の代表として師を悼む碑文を書き、唐の皇帝の信任も得る。だが、二十年の留学期間を端折って二年で帰国、一年の隠棲を経て都に帰り着く。

 その後の話の展開は、最澄とのかかわりが大である。最澄空海は同じ遣唐使船で唐に渡ったが、船が違い到着地も異なった。何より身分も違った。最澄天皇の信任が厚い請益僧であり、空海はただの留学生であった。

 空海より早く帰国した最澄密教の断片を持ち帰ったことが、二人の齟齬の始まりとなる。最澄は己の不完全さを認識、空海に教えを請う。経典の貸出を何度も頼む。それこそ頭を低くして幾度も頼む。むろん空海はそれに応えるが、空海には密教は書物を読んで理解出来るものでもないし、そうするものでもないという信念がある。ついに一人の弟子を巡って完全な断絶となる。このあたりは、二人の間を行き来した書簡が残っているだけに両者の人柄の違いがありありと見える。最澄の温和、篤実さにくらべて空海のあくの強さ。

 「最澄は便宜として密教を身に着けようとしているのではないか」という空海の疑惑はわからぬでもないが、凡人としては山野を渉猟し、明けの明星を体内に取り込み、宇宙そのものを体現した「空海」という偉大さがわからぬゆえ、最澄に同情したくもなる。

 「弘法大師」として様々な伝説があるのをみても、「空海」という人はよほど特異な人であったに違いない。空前絶後のひとであったゆえに、最澄天台宗がその後幾人かの宗教人を輩出したのに比べて、空海の後は寂しいと言われるのも、そのあたりに所以があるのかもしれない。

 それにしても実に壮大な話であった。大岡さんではないが、伝記でもあれば時代史でもあり、仏教書でもあれば、思想書でもあるという一冊にちがいない。

 

 さて、下世話な話になるが、何年か前に家族で高野山に詣った。酷い台風と重なり大降りの中を奥の院に詣でたことや世界一不味いのではないかと思われる〇〇食堂で(ここしかなかった)昼をとったことが思い出される。個人的な感想だが、空海の事蹟なら東寺の方がいい。

 

 

 

 

        雲の影おおきくひろげ山眠る

 

 

 

 

空海の風景 (下) (中公文庫 A 2-7)

空海の風景 (下) (中公文庫 A 2-7)

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ムクドリ