長き夜

夏の頃に予約しておいた「東西落語名人会」に出かける。今回は三遊亭円楽さんと桂文珍さん。笑った、笑った、大いに笑った。円楽さんは体調が悪いように聞いていたが、自虐ネタで病気のことも取り上げておられたくらいだからもう大丈夫にちがいない。演目は『短命』。

 一方の文珍さんの演目は高齢化社会にネタをとった新作落語『憧れのホーム』。これが滅法面白い。絶妙な語り口である。

 超高齢夫婦がホームにでも入ろうかと思うのだが先立つものがない。公営の三食付き職業訓練も受けられて無料というホームを目指すのだが・・・。身にしみてほろ苦いおかしさもあり。

 

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だんだん秋も深まってきて夏の片付けやら冬支度といろいろ気忙しい。先週は家人に手伝ってもらい物置になっている二階の障子を張り替えた。座敷などのガラス入りは業者に頼むのだが古びた部屋の障子ぐらいは自分でと思ったのだがこれが大変。昔は一人でやったのに今は手伝ってもらってやっと張り上げた始末だ。

 

 

 

 

          ノーサイド余韻に浸る長き夜

 

金木犀

『パンと野いちご』 山崎 佳代子著

 副題に「戦火のセルビア、食物の記憶」とある。その名のとおりセルビアの内戦で難民とならざるをえなかった人々が苦しかった状況の中で日々何を食べてをのりこえてきたかということへの聞き書きである。恥ずかしいことだが私は山崎さんの本に出会うまで、バルカン半島の内戦については全くの無知であった。

 バルカン半島は古代から文明の交叉路ともいうべき地でそれゆえに人種の坩堝でもあり、セルビア人・クロアチア人・ムスリム人・アルバニア人などの人々が混在して国家をなしていたのが旧ユーゴスラビアであった。それが社会主義国家の解体と共にそれぞれの民族の独立志向と相まって激しい内紛に発展していった。1990年代のことでそれほど昔ではない。

 ここで取り上げられているのは主にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とコソボ紛争で、それもセルビア側からの話である。NATOによる空爆やらセルビア側によるジェノサイドなど酷い出来事は色々あったようだがここでは普通の人々が戦火を逃れて難民となり転々とする話である。着の身着のままで逃げるのであるから食料などは多くは持ち出せず日本でいう炊き出しのようなものに世話になったり難民支援などの施しに頼ったりしかない。頼っていった親しい人の家で暖かい料理を出されて感激する話がある。子供に食べさせる物がなくて途方に暮れる話もある。昨日のテレビでもトルコの攻撃から逃れて難民となるクルド人の女性や子供たちを写していたが、同じ悲しみがまたくり返されている。

 料理としては豆のスープがよく出てくる。それからパブリカの肉詰め。どうやらこの地方はパブリカが豊富らしい。調味料にもパプリカだ。

「なぜ私はこんな状況のときに、市場にいつも通っていたかというとね、それは料理をするということは、家族がみんな仲良しだという感じを生み出してくれるからなの。料理をするということは、家族を集めるということなの。こうした状況のなかで、正常な気持ちを生み出してくれる、それは異常なことが起こっていることに対する抵抗でもあるのよ。」クロアチアからコソボから二度も難民になった女性の言葉である。女にとって家族に何をどう食べさせるのかはどんな時でも最大の関心事なのだ。

 さてこの本は今年の紫式部文学賞を受賞した。この賞は女性の文学者を対象とした賞でいつもいい作品が選ばれていると思う。

まだ読了したわけではないのでもう少し続きを読みたいと思う。

 

 

 

 

        降り立てば金木犀に迎へられ

 

 

 

 

 どこららともなく金木犀が香りだした。日記を見れば例年より一週間は遅い。

 

パンと野いちご: 戦下のセルビア、食物の記憶

パンと野いちご: 戦下のセルビア、食物の記憶

秋の暮

『神戸・続神戸』  西東 三鬼著

 書下ろしが昭和29年から昭和34年とあるから随分古いものである。今になってなぜ出されたのかその辺りの事情はわからないがその価値は十分あるほど面白い。何が面白いかといってひとつには三鬼の無頼ともいっていい生き方、おどけたような自嘲的筆致で紹介されるいくつかの出来事や隣人たちのことだ。

 三鬼は京大俳句事件に絡んで検挙された後、戦中の昭和42年から終戦を挟んで14年間神戸で暮らしたわけだがこの時の体験を書いたのがこの本である。「神戸」が戦時中の話で「続神戸」が戦後の話であるが戦時下にもかかわらず前半の話が圧倒的に面白かった。

 彼が暮らしたのは「戦時とも思えない神戸のコスモポリタンが沈殿しているホテル」で同宿者といえば日本人男性は彼と老医師だけ。ホラ吹き男爵のエジプト人エルバ氏、比類なき掃除好きの台湾青年基隆(キールン)氏、熱心なお大師さま信者の広東人王(ワン)氏などに加えて三鬼が勝手に庇護者を任じている元娼婦の波子さん、何人かのバーのマダムなどなど登場者は誰も誰も型破りな人々だ。わけても飢えが恒常的であった時代に己の才覚だけで何とか食べていこうとする女たちの気概はすざましい。

 いずれも哀しくも愛すべき戦時下のたくましい庶民の姿であっただけに、この内の多くは戦争でなくなったり行方知れずになってしまったというのは面白いだけには終わらない深い悲しみがつきまとう。

「彼等や彼女らは戦時色というエタイの知れない暴力に最後まで抵抗した」

 彼等を心中愛していた三鬼の言葉である。

 読了後三鬼の句集を繰ってみたのだが何句か当時を詠んだに違いない(あくまで想像だが)と思う句を見つけたのでここに引きたい。

 厖大なる王氏の昼寝端午の日

 恋猫と語る女は憎むべし

 露人ワシコフ叫びて石榴撃ち落す

 犬を呼ぶ女の口笛雪降り出す

 ところで三鬼といえば新興俳句運動の第一人者で俳句は前衛的と思っていたが意外なことに戦後は『天狼』の編集者だったのだ。本の中でも戦時中の誓子の句作に感動して戦前のものとは違った俳句詠みに邁進しだす様子が語られている。

 享年62歳、早い死であった。

 

 

 

 

          小魚のしきりに踊る秋の暮

 

 

 

 

神戸・続神戸 (新潮文庫)

神戸・続神戸 (新潮文庫)

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 秋の七草のひとつの藤袴。昨日園芸店で求めてきた。来春に備え、チューリップとフリージャの植え付けもすんだ。

 

 

小鳥来る

『やがて満ちてくる光の』 梨木 香歩著

 新聞の書評欄で作家の室田玲子さんが「生活のヒトコマにきらめく叡智」と題して紹介されていた。「身近な生活のヒトコマから紡いだ随想が静かな筆致で語られる。そしてときおり叡智がきらめく」実に適確な書評で流石にプロだなあと思う。いまさら我輩などが何をか語らんや。今まで知らなかった人だけに記録に留めておこうと思う。

やがて満ちてくる光の

やがて満ちてくる光の

 

 十月になっても日中は相変わらず暑いが、蝉の声はぱたりと消えた。代わりに小鳥の声が喧しい。声で鳥を特定することができないので、さえずりの主は誰なのかと思ってしまう。

 散歩をしたら用水の水もストップしていた。先日まで滔々と流れていたのでこれも十月からなのかしらん。あんなに待ち焦がれていた彼岸花もすでに名残。きれいなところが少なくなった。

 

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          川鯉に餌をやる人小鳥来る

 

冬瓜

「あんた 大きい冬瓜でもいい?」と夕方玄関からいきなりの大声。いつも冬瓜をくださる隣の畑のIさん。もう八十は越えておられるがすごぶる元気。

「いつもいつも悪いからいいわ」と言うと「なんでそんなこと言うの?食べてよ!」と怒ったように怒鳴られる。

「あんね、冬瓜なんかはいらんという人は料理の下手な人、もらってくれる人はうまい人なんやて。冬瓜は味がないからねぇ。」とこうまで言われては、もらわない手はない。ちょうどいい大きさのものはみんな腐ってしまったからと玄関に転がったのは爆弾のような大きさでびっくりだ。

頂くばかりではと家にあるものをお返しすれば義理堅い彼女はまたまた何かを持ってきてくださる。いつもの年は冬瓜の後はさつまいもをくださる。

「あのね、毎年お薯をもらうけど今年は苗をもらったからうちでもちょっとできると思う」

そう言ったら「そうかね。今年はあんまり肥やしをやらんかったからできとらんかもしれん」そう言って帰っていかれた。

 

 

 

 

            冬瓜の全きままの存在感

 

 

 

 

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花芒

『小さな町』  小山 清著

 小山が生涯に書いたものは五十編弱でそのほとんどが短篇だという。この本に収録されたのは十編。彼自身の短いあとがきによれば、戦争中東京の下町で新聞配達をしたことや、戦後北海道の夕張炭鉱で炭鉱夫したことに取材した作品群ということになる。

 なかでも「離合」はもっとも初期の作品でやや長い。太宰に認められたというもので「離合」という題名も太宰が付けたのだという。戦時中の話なのに戦時色はまったくない。新聞配達を身すぎにしている気はいいが煮え切らない男が行きつけの古本屋に同業の女性を紹介されてうだうだと思い悩む話である。

「僕と結婚してくれない?」彼の唐突な申し出に「結婚して、どうするの?」と聞きかえす女のほうが賢明で冷静である。

「よく考えた?」「ううん。」「あら、それぢゃ、ひどいぢゃないの。」「まじめにかんがえた?」「うん。」

 太宰がどんな点でこの作品を評価したのか不明だが、戦時色が濃くなる前のまだうすらぼんやりと明るい時代だったせいかもしれない。

 十編の内でしみじみと良かったのは「夕張の春」。私小説的色合いが濃い彼の作品の中ではこれはフィクションだと思われるが、無論主人公は作者自身の投影である。内地で身も心もすり減らして遥々遠い他国に渡り、安住の地を見出さんとする男の話である。

 「自分のようなものでもどうにかして生きていきたい。」そう思って踏み出していこうとする寡黙で孤独な男の前におとなしいがしっかりした気性をもった女性が現れる。いってみればおとなのメルヘンのような話だ。

 宜なるかな。実生活で彼が十四歳も年下の妻と結ばれた年の作品である。幸せの絶頂期。

 その後の運命の過酷さを知っているだけに作品に横溢する幸福感が心に残る。

 

 

 

 

           花芒海にそひゆく羽越線

 

 

 

 

小さな町 (大人の本棚)

小さな町 (大人の本棚)

 

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曼珠沙華

ベオグラード日記』 山崎 佳代子著

 久しぶりに引き込まれて読了。筆者のことはもちろんベオグラードという地名にも馴染みがなかった。ベオグラードというのはセルビア共和国の首都、かってはユーゴスラビアの首都という。バルカン半島の複雑な政争で今はセルビアの首都というのだがこのへんの事情は無知でさっぱりわからない。彼女はここに在住四十年、詩人であり翻訳家であり日本文学の伝道者でもある。検索すればさらにいろいろな情報は出てくるがそれはこの本とは直接に関係はない。

 「日記」とあるだけにまさに日常の記録である。2001年から2012年まで。1999年コソボ紛争でのNATO空爆の話から始まり2011年の東日本大震災まで大きな重い話の間に何人かの親しい人の死や新しい家族の誕生、そして何よりも彼女自身の活動記録。

 仲間の詩人たちとの朗読会(あちらでは随分盛んなんだと初めて知る)翻訳と出版、博士論文の執筆。コソボからの難民支援。(このコソボ紛争というのもよくわからない。NATOセルビアと対峙してトマホークが打ち込まれ彼女の隣人にも犠牲者が出たというのだ。)そして詩作。

 これらが実に透徹した詩的な文章で綴られている。彼女の感受性に導かれて読み進む者も歓びに浸り哀しみに沈む。未知の土地にあこがれその歴史の過酷さに興味を抱く。

 

 彼女の近作が紫式部賞になったという記事が小さく出ていた。それもぜひ読んでみなければ。

 

 

 

 

        縄文の土器の前衛曼珠沙華

 

 

 

 

ベオグラード日誌 (りぶるどるしおる)

ベオグラード日誌 (りぶるどるしおる)

 

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今年はなぜか彼岸花の開花をあまり見ない。やっと見つけたのもつぼみが多いところをみると開花が遅れているのかとも思う。夏が暑かったからそのせいだろうか。