炎昼

『ラブという薬』    いとうせいこう星野概念

 トシヨリでスマホも持たない当方は、SNSの世界を渉猟するということはまずない。ところが今やや若い人にとってはSNSの世界は片時も切り離せぬものらしい。いとうさんによればスマホを瞬時でも忘れるというアプリもあるらしいから、相当重症化していると考えてもいい。そうなると魅力もあれば毒もあるということで、そのため社会全体がギスギスしているとか低年齢化しているとかは、トシヨリでも聞かない話ではない。

 この「きつい現実」にいとうさんと星野さんは人間関係での「傾聴」と「共感」の大事さを強調する。実は星野さんというのは精神科医でいとうさんの主治医でもあるのだが、カウンセリングを受ける患者対医師の構図の延長線上にこの対談がある。つまり「傾聴」と「共感」はいとうさんが星野さんとの出会いから学んだことなのだ。この星野さんというのがお若いのに随分度量の広い人のようで(職業的訓練もあるのでしょうが)何か悩みがあるならこういう人ならじっくり話を聞いてもらえそうだ。精神科受診のハードルを下げることもこの本の目指すところらしいがその点でも企画は成功していると思う。

 いろいろ弊害はあってもこんなトシヨリでも今やSNS抜きに暮らしは成り立たない。いいのか悪いのかともかく世の中は変わってきたのだと痛感する。

 

 

 

 

     炎昼の戸を閉ざしたり老いの家

 

 

 

 

ラブという薬

ラブという薬

 

夏台風

 台風12号が東海地方に上陸するというので、昨夜は雨戸も閉め植木鉢なども棚から下ろして就寝した。ところがこれは幸いということなのだが、雨すらほとんど降らず拍子抜けして元にもどしたのだ。ところがところがこれで終わらず。吹き返しが予想外に強く今日になって花鉢が転がることに。結局二鉢も割れてしまった。一日たった今でも山口辺りにのろのろしているようで全く異例の台風である。

 

 さて今朝は猫と散歩のご老人と遭遇した。リードもつけずにつかず離れず後を追う猫に驚いてぼんやり見ていたらそのからくりが読めた。ご老人は餌を片手に少しずつ与えながら誘導されているのである。なるほどそういうやり方もあるのかと感心した。台風の名残の風の中をふわふわと立ち去る一人と一匹、いい眺めだった。

 

 

 

 

 

     夏台風天邪鬼と命名す

 

 

 

 

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昼寝

 二日ほど前から夏の花粉症が酷い。くしゃみと鼻炎で真夏なのにティシュが手放せない。体調が悪かった間は花粉症を忘れていたが、少し体力が回復してきたせいか、またぞろ免疫反応が出だした。これを喜んでいいのかどうか複雑な気持ちだ。今朝はあまり酷くて気もそぞろになったので残っていた薬を飲んでみた。夏の花粉症はイネ科が多いというが原因は不明。暑いから冷房の部屋以外は窓も開け放しており風が入ってくるからしかたがない。

 

 『古代の鉄と神々』     真弓 常忠著

 Tが面白かったと言ってまわしてくれた今月のちくま学芸文庫の一冊である。

 古代の日本で青銅器に先行して鉄器が使われていたのではないか、普通鉄の製錬には銅より高い溶解が必要とされるがそれは磁鉄鉱などをの場合で太古(例えば弥生時代初期)の鉄は褐鉄鉱を利用したのではないか、褐鉄鉱は葦などの水性草木の根本に出来るもので粗悪だが低い温度で溶解でき鍛造で鉄器を作ることもできるので稲作の発展におおいに寄与に違いない、この褐鉄鉱の塊をスズといい(空洞でからからと鳴るものもあった)信濃の枕詞「みずずかる」はこれをいうのではないか、また銅鐸はこのスズの生成促進を願ったものではないか

 など論考の大まかな点は以上のようなものであったと思う。筆者は神職にある研究者として神社に残る祭祀や神話などをもとにこの論考を展開されているわけだが、実際褐鉄鉱からの鉄溶解の実験もなされたようで説得力のある内容であった。ことに銅鐸がある時期をもって突然に埋められて終わってしまったという事実は、その用途とともに古代史の大きな謎であり、筆者の仮説にはかなり興味が残った。

 

 明日は亡父の三十三回忌を務める予定で何かと気ぜわしい。

 

 

 

 

     老い二体昼寝のさまの仏めき

 

 

 

 

古代の鉄と神々 (ちくま学芸文庫)

古代の鉄と神々 (ちくま学芸文庫)

 

夏深し

『晩年の父』   小堀 杏奴著

 「アンヌコ、ヌコヌコや」とか「パッパコポンチコや」とは時に鴎外が子どもたちを呼んだ愛称である。いかにも可愛くてたまらないという気持ちだ。我が家も子どもたちが幼かった頃は可愛い動物名を冠して呼んだものであるから、この気持ちはとてもよくわかる。よく「目の中に入れても痛くない」などというがそんな気持ちかもしれぬ。

 表題作はまさにそんな生身の鴎外晩年の姿を描いた筆者の父恋の想いに溢れた一冊である。鴎外は著者の14歳の年に亡くなるのであるが、ちょうどその一年前からの思い出だ。おそらく間近に迫る死期を感じていたであろう鴎外の、まだ幼い子供たち(杏奴と類)に寄せる痛々しいまでの慈しみの姿である。子どもたちの我儘にも根気よく付き合い、翌年に受験を控える筆者の勉強もみるという父である。役所に通いながら病気持ちで体力的にも厳しかったにちがいない。それでも鴎外は「強くて強くて本当に優しいのに強かった。」

 時に鴎外の気持ちをうべない、時に筆者の想いに寄り添い何度も目頭が熱くなった。まさに鴎外は最期の最期まで「理想の父」であった。

 

 

 

 「猛暑」と「酷暑」とどちらが厳しいのかと思うが、いずれにしてもこの暑さはまだ終わる気配がない。ことにこの二三日は終日冷房が切れない。畑の野菜も花々もさすがに元気がなくなってきた。朝のうち動いて後は読書か昼寝というトシヨリのこのごろ,「こころ旅」も昨日の岐阜で終わったし、お相撲も明日までだし、ちょっと寂しいな。

 

 

 

 

     屋根までも伸びし徒長枝夏深し

 

 

 

 

晩年の父 (岩波文庫)

晩年の父 (岩波文庫)

 

白靴

『朽葉色のショール』    小堀 杏奴著

 著者は言わずと知れた鴎外の次女である。今まで何か読んだような気もするが記憶にない。姉の茉莉とは異なり堅実な家庭を築いた彼女らしい抑制のきいた文章である。生き方というか人生観に触れたものが多い。父鴎外の思い出についても、鴎外の暮らしに向かう姿勢、つまり何事にもどんなつまらないと思われることにも全精神を集中する生き方に触れた文が多く、筆者もまたそれを見習わんとされていた事がよくわかる。

 前半と後半に分けて編集されているが、前半、主に家庭生活に題材をとったものでは「冬の生活」が最も心に残った。戦時中の信州での疎開暮らしに材を得たものだが、厳しい寒さと物質的乏しさの中でも穏やかさや慈しみを失わぬ「聖家族」のごとき一家の暮らしぶりが描かれている。以前、家庭というもの家族というもののひとつの理想を庄野潤三の作品に感じだが、杏奴の描く家庭もひとつの理想像に違いない。

 後半、鴎外に関することや著者と関わりのあった文学者などの話では、永井荷風との関わりなどが興味深かった。いろいろ誤解の多かった荷風について、風聞とは異なる人間的な人柄の一端が紹介されていた。

 鴎外の娘さんたちはやはりなかなかであった。茉莉さんの話はほとんど出てこないが、これを機会に再読してみたくなったし、著者の『晩年の父』も読んでみようと思った次第。

 

 

 連日39度超えの暑さでさすがにこたえる。この暑さでボランティアをされておられる方々の様子を見ると、頭を下げるほかにない。トシヨリの半病人はこれ以上周りに迷惑はかけられないと「熱中症」だけは気をつけている。

 

 

 

 

     白靴を慣らし履きして旅に出ず

 

 

 

 

朽葉色のショール (講談社文芸文庫)

朽葉色のショール (講談社文芸文庫)

草刈り

 昨日あたりから猛烈な暑さになった。予報では今日は38度を記録するらしい。こんな中での被災地の方々のご苦労は想像をこえる難儀さだと思う。

 ともかく午後は暑さでいかんともしがたいのでH殿も当方も5時起きで涼しいうちの仕事を心がけているのだが、今朝はすでに朝から暑い。

 激痩せで去年までのパンツがみんなだぶだぶの有様となった。楽で涼しく着られるものをとイージーパンツの制作。布を買ってきて型紙を写して縫いあげて二日間。ホームウエアとしてどうにか着られそうだ。あと一枚イージースカートも縫おうと思う。

 

 

 

 

     草刈りの音に遅れて草匂う

 

 

 

 

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蝉時雨

『私だけの仏教』    玄侑 宗久著

 副題に「あなただけの仏教入門」とある。玄侑さんの豊富な知識を駆使して解りやすく解説された実践的仏教入門書である。そして、読後、自ら「仏教徒」と思い何の疑問も抱かなかった私は、仏教とはこういうものであったかと初めて知らされた本でもある。もちろん玄侑さんの書かれているとおりに日本の仏教は「八百万状態」で、私の唱えるお念仏もお仏像を拝んで唱える真言も仏教の一部には違いないのだろう。が、本来の仏教というのは「心の平安を得るための方法論」ともいうもので後生を頼んだり病気平癒を祈ったりするものではないらしい。心の平安を得るためには目指すべき生活習慣として「戎」が必要視され「戎」のさきに多様な「行」があるのだという。それは念仏だったり、座禅だったり瞑想だったり読経だったりということらしいが、「戎」はともかくとして「行」はなかなか凡人というか私には高いハードルである。時々念仏し、時々瞑想の真似事をしてみるだけでは、とても「心の静謐」さは得られそうにもない。いずれにしても一度読んだだけでは消化しきれそうもない内容なので、またの課題である。

 

 

 

 

     惜命の声いちだんと蝉時雨

 

 

 

 

 波郷に「七夕竹惜命の文字隠れなし」という名句があって「惜命」という言葉が頭にあった。ところが、この言葉、辞書をひいてもでてこない。どうやら波郷のオリジナルな言葉らしい。あってもおかしくない言葉だと思うから、使わしていただいた。

 

 

私だけの仏教 あなただけの仏教入門 (講談社+α新書)

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