敬老の日

講演会『旗本徳山秀現の戦国時代』を聴く 入江康太氏(岐阜県歴史資料館・学芸員

 昨日、今日と新聞の折込チラシに葬儀屋のものが目立ち、敬老の日だと気づいた。会員になれば2割引きにしますとの謳い文句。足元を見透かした嫌な奴らだ。ちらりと気にならないでもないが、死ぬときまで節約しなくてもなんとかなるでしょう。そう言えば、姉の経帷子はちょっとお高いものにしたと甥は言っていた。ペラペラの安物だと母さんおこりそうだからなあと言ったので、見栄っ張りの姉の顔を思い浮かべて納得したのだが、私はペラペラでも文句は言いません。

 

 さて、昨日の講演会、「徳山秀現(ひであき)」とは何者かということだが、江戸期の我らの初代領主である。生まれ育ち、そして今も住む小さな村落は、江戸期を通じて旗本徳山氏2700石の領地であった。隣村に陣屋があり、今は公園として整備されている。

 秀現は戦国時代の人、美濃の北端徳山村(有名な徳山ダムで多くが水没したあの村である)の土豪を出自とする。濃尾平野から言えば、山岳地帯の美濃のどん詰り、そんなところから一旗あげたのには、それなりのわけがある。

 それは、中世以来美濃から越前に抜ける主要な道筋があったからで、徳山氏本家は越前の情報収集や戦で手柄を立てて、佐々成政の与力として700石を有したこともあったらしい。

 秀現は本家の直系ではないが一族で、歴史に現れるのは柴田勝家の家臣としてである。勝家の姪婿であり、家臣としても高い地位にあったようだ。賤ヶ岳の合戦当時は、越前小松城主であったが、敗戦でも命は失わなかった。

 前々から徳川家の重臣たちと親しい交流があり、石川数正らの口添えもあって、前田利家に再仕官、御伽衆の一員となる。利家の側近として、他の大名家への使者役を務めたりするが利家の死去と共に出奔、徳川家に仕官する。

 徳川家でも駿河に在住、やはり家康の御伽衆だったようだ。京都の公家の元にも出入りして慶長11年には二位法印に叙任されている。

 没年は1606年(慶長11年)62歳であった。

 講師は、豊富な軍事政治経験があり、思慮深く、交渉に長けた人物と評価されていたが、一面世渡り術に長けた人ともいえるのではないか。石川数正の例もあるが、本郷先生によれば仕官の乗り換えはよくあったようだ。当人の売りと雇い人の条件が合えば、当然かもしれない。

 さて、江戸時代、徳山家は本家と分家があって、分家では一揆まがいの騒動があったのだが、われら本家の方は何も聞いていない。

 

 相変わらず当地は猛暑日。真っ赤な顔で草引きをしていたら、町内の敬老祝いを持ってこられた近隣ケアの人に、大丈夫ですか、水分をとってくださいねと言われてしまった。トシヨリがご心配かけていけませんね。

 

 

        葬儀屋の折込チラシ敬老日

 

 

 

うちの彼岸花咲く