春蘭

柿本人麻呂』  北山 茂夫著

 先に読んだ梅原さんの『水底の歌』と同じ年の刊行である。おそらく当時の人麻呂ブームを意識しての出版で、こちらは古代史の学者である。当然ながら正史には記載のない人麻呂であるからその人物像は万葉集の歌をとおしてのものとなる。

 それによれば彼の活躍は壬申の乱以後であり、さらに絞れば持統天皇即位後のことである。草壁皇子への挽歌を初め持統天皇行幸に供奉しての奉讃歌や儀礼歌など持統天皇との結びつきは寵臣ともいうほど深かったようだ。筆者はその特別な間柄を「宮廷歌人」という立場を与えて説明しているが、ここは梅原さんの「春宮大夫ないし中宮大夫」との説明の方が納得できる。梅原さんによればこの役職というのは、天皇の妻や母あるいは皇太子に関わる一切の庶務を引き受ける役割であったという。そうならば彼が持統天皇やその周辺の人々とかなり親密であったことは当然であろう。その例として天皇の側近と思われる女官との相聞歌のやり取りもあれば皇子たちとの歌の交流もある。これらをみればとても官位の低い人であったとは思えない。

 さて問題は晩年の境遇である。常に天皇行幸に従駕していた彼の運命の変転は702年ごろ。この年持統天皇崩御、そしてその前の強引な軽皇子への皇位継承と宮中内での藤原不比等一派の専横。どのようなわけがあったのかわからないが、朝廷の空気がすっかり変わってしまった中で人麻呂は石見の国に赴任、そこで客死したというのがこの本の説明だ。もちろんあれほどの信頼の厚かった持統天皇への挽歌も詠んではいない。

 梅原さんはこの突然の運命の変転を「流罪・刑死」という言葉で説明されたが、そう思わせるだけのことは確かに多い。しかしこの本を読んで「讃岐の狭岑島」での歌などは梅原さんのかなり恣意的な解釈が強いのではないかとも思った。

 人麻呂のいくつかの長歌や短歌を読んだのは学生時代以来である。もっともその頃は読んだといえるほど読んだどうか。

玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈毎に(やそくまごとに) 万(よろず)たび かへりみすれど いや遠(とほ)に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 念(おも)ひ萎(しな)えて 偲ふらむ 妹が門(かど)見む 靡けこの山

 石見国で睦んだ女性と別れゆく時の歌の一部である。この本にも「その哀別の激情からくる人麻呂の絶叫である」とある。「靡けこの山」とは慟哭ともいえる絶唱で深く心に沁みる。いずれにしてもこういう歌を残して彼は石見で身罷ったのである。

 歌聖らしい人麻呂の歌をもうひとつだけ

志貴島の 倭の国は 言霊の 幸(さき)はふ国ぞ ま幸くありこそ

 人麻呂は歌聖といわれるほどの歌人であり、栄誉に輝いたと日々もあったが晩年は寂しかった。以上の点は誰がみても間違えのない史実のようだ。

 

 

 

 

         春蘭に花芽いつつの嬉しさよ

 

 

 

 

柿本人麻呂 (岩波新書 青版 869)

柿本人麻呂 (岩波新書 青版 869)

 

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