仏桑花(ぶっそうげ)

沖縄 三日目

 予定していた首里城那覇歴史博物館もだめで、さて半日どうするかということになる。ともかく街歩きをしようとまずは国際通りへ。さすがに朝早く昨夜の喧騒はない。本屋でもあれば「沖縄本」でもと思うが,見当たらない。(後で空港の本屋で買った本『市場界隈』でいい古本屋さんがあったことがわかり、残念)

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フラフラしてUターン、「牧志公設市場」のアーケイド街に入る。

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さすがにここもまだ開けている店は少なく朝の準備中だ。地図を片手にウロウロしているから行きずりの男の方が声をかけてくださる。立派なお顔、沖縄の方は美人や男前が多い。

 カーテン屋さんで織りの暖簾を見ていたらお店の方が「それは偽物ですよ。」とおっしゃる。「それはインドの製品ですから」とまあまあ正直なこと。これをきっかけに紅型模様の長暖簾を買う。多分木綿のたいしたものではないがほの暗い我が家を明るくしそうな鮮やかな紅型模様である。マンゴーの喫茶店のあり場所を聞いたらわざわざ開店時間を聞いてきてくださるが、10時からなので諦める。

 牧志公設市場は今年の6月に半分ぐらい移転をしたとかで、ガランとしたアーケード街もある。新しい公設市場は下の写真のようで、きれいだが風情はなくなったかも知れぬ。

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 あまりのんびりしていてもとホテルに戻りチエックアウト、首里城公園に向かう。さすがに市営駐車場も空いている。守礼門だけは変わらぬがそこを過ぎれば進入禁止のテープが。観光客みんながあきらめきれぬ様子だ。近くの王家のお墓、玉陵(たまうどぅん)を見てからまた引き返し案内所で心ばかりの募金をし、焼け姿だけでも見られる所を教えてもらう。ニュースでみんなが火事の様子を見ていたあの池の端である。

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 昨日の疲れもあり暑さもあり限界に近かったのだが執着心の強い当方はもう一箇所の見学を提案、王家の別邸という識名園に廻る。よたよたしているので家人がしきりに心配してくれる。とにかく身を運ぶのに精一杯で写真も撮らず、この日の写真はTにまわしてもらったものばかりだ。
そうそう識名園では2匹のニャンコに出会う。ものすごくどうでもいいことだが、この旅では合計4匹のニャンコとの出会いあり。旅での出会いとしては多いほうかしらん。

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 長々と旅のことを書いてきたが自身としてはもう一度旅の道中を振り返って楽しんだ。ブログを書く効用というものだろうか。

 辺野古へは行かなかったが例の嘉手納基地周辺も走った。不思議とこの旅の間中軍用機の飛んでいるのを一機も見かけなかった。うちの辺りも今朝などは酷いが(航空自衛隊航空祭であった)時期によって違うのだろう。

 万歩計は三日目は14443歩、10.4キロ、2日続けて記録である。「もっと足を鍛えないと何処も行けないよ。」家人の忠告である。

 そうそう格安選んだマイナス面は中部国際空港の不便さである。今年の9月から格安は第二ターミナルに移ったのだがこれが相当に遠い。飛行機を降りて荷物受取場まで約1キロ、荷物を受け取って連絡電車の改札口まで約1キロ。後半は動く歩道もあるが前半はそれもない。老人には厳しい旅の仕上げであった。

 

 

 

 

        首里城の朱をおもかげに仏桑花

   

仏桑花はハイビスカスの花。夏の季語
だが沖縄では今も盛んに咲いていた。

 

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秋の蝉

沖縄 二日目

 二日目はもっぱら北部の観光をしようと恩納村のリゾートホテルに泊まる。さすがにビーチで泳ぐ人はいないが水上バイクなどに乗る人はいるようだ。まだまだ暑い。H殿はジンベイザメ模様のTシャツなどを着てすっかりリゾート気分だ。そのくせできれば「チビチリガマ」の慰霊にも寄りたいというのでTがルートの検討をしているが観光は駆け足となりそう。

 最初に訪れたのは「万座毛」という景勝地。海に突き出た岩山が象の鼻に似ている。初めて見る植物や鳥の鳴き声に南国を感じる。人がいないと思ったのもつかの間、大型バスが次々に到着、中国語が飛び交う。海の青さを目に焼き付けて早々に退散する。

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 次の目的地は海洋博公園(美ら海水族館)である。かなり距離がある。名護市に入ってしばらく走ると山一円が赤土でむき出しになった異様な景色。H殿が「辺野古の埋め立て土砂を取ってるのだ」と言う。まさかと思ったがまさにそのとおり。「積み出し反対」の幕やら看板、運動中の人々が目に入る。埋立地は反対側だからここから船やダンプで運ぶらしい。観光とはまた違う沖縄の現実だと思いガラス越しに小さく応援の拍手をする。

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さて、「美ら海水族館」である。我々としては、ここではジンベイザメとマンタに出会うだけが目的。ここも修学旅行生がいっぱいだ。つらつらと見てはやばやとお昼をとり出発。

 近くの「フクギの並木」というものに寄る。沖縄らしい原風景だと以前来たYのお勧めだったが、村の人の生活圏だからあまり覗き込むのもどうかと思ううえに蚊が多くて痒い痒い。ひと廻りだけして次に向かう。

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 次は今日の観光目的としては最後の「今帰仁城(なきじんぐすく)」である。

14世紀に造られた石積み城塞の跡である。観光客はほとんどいないが、城跡一円に鋭い金属音が鳴り響いている。「ケーンケーン」といった音で草刈り機の音なのかと思ったりしたが入場券売り場の方に聞いて蝉の鳴き声だとわかる。ツクツクボウシ科の「オオシマゼミ」というらしい。ともかく初めて聞く音で驚いた。城跡は暑いうえに広大で石畳の歩道やら階段で疲れ気味の当方としては一歩々々がやっとだ。眺望を期待してよたよたと登る。上から見たのはかくのごとし。

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下りてきたところでニャンコ2匹を発見。「いいこだねぇ」と岩合さんばりに声をかけていたら一軒だけある小さな店のお爺に「サトウキビジュースはいらんかね。」と言われる。喉が渇いていたからいただくことに。「奥さんこっち持って」とジュース絞りを体験させられる。サトウキビを搾り機に押し込むだけだ。後は氷を入れて百パーセントの生ジュース、忘れていた懐かしい味だ。(昔は家でもアマキというサトウキビ作って夏のおやつにしていた)お爺は店先の大釜で黒砂糖を煮詰めておられたが、こちらは黒蜜だけを買う。看板猫のおかげで楽しい寄り道をした。

 さてこれで本日の観光はお終いにしてH殿の提案で「チビチリガマ」に向かう。ここは米軍の本島上陸で逃げた人々が集団自決した悲劇の場所である。2年ほど前に地元の中学生によって荒らされてニュースになったことがあった。参拝者のための小さな駐車場があったがトイレなどは壊れやや荒れている。「ハブに注意」の看板がやたらにあり当方は戦々恐々、恐る恐る階段を下りてガマのまえでお参りをする。鬱蒼として暗くここで死なねばならなかった人(子供や若い人が多かったという)の無念さを一段と思う。

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 二日目のホテルは国際通りから一歩入っただけの街なかである。H殿は旧友(この方はHとは教養部のころの寮友で、当時は国費留学生として本土に来ておられたのである。つまり沖縄の返還前の話)と食事をするというので当方とTは別行動となる。予約をいれておいた店はゆいレールでひと駅のところにあるようだが国際通りの賑やかさにつられて歩いて向かうことにする。夕方で大混雑、まさにアジア的喧騒と猥雑である。夕食は昨日に続いて沖縄料理とオリオンビール、二人で十品種も堪能した。歩いて帰るのはさすがに疲れてひと駅だけだがゆいレールも体験。

 ホテルに帰って万歩計を見たら16000歩弱、11キロで、我ながらびっくりであった。

 

 

 

 

      城一円ほしいままなり秋の蝉

 

 

 

秋澄む

沖縄 慰霊と観光と旧交を温める旅

 初めて家族で沖縄に行ってきた。沖縄に学生時代の寮友がいるH殿は前々から行きたがっていたのだが、こちらの気が乗らなくてのびのびになっていた。やっとその気になってプランを立てたら今回の首里城の災難である。間が悪いというしかない。

 気をとりなおし那覇市歴史博物館での国宝拝見などを入れたのだがあいにくそれも休館日と重なり散々。しかし、思ったより余裕もなくて南から北まで駆け足での三日間。慰霊もし、観光もし、さらにH殿は半世紀前の思い出も語り合った旅であった。

 

一日目

 飛行機での旅に慣れた人には何でもないことだろうが、今回は旅行会社を頼まず初めてネットで格安航空を予約してみた。丁度いい時間帯の航空券(大手の)が差額料金とかが加算されて随分高く、それで考えたわけである。結論的にいえば三分の一の料金で何も問題はなかったのだが最後の最後にどーんと差別を思い知らされたのでそれはそれで後で触れたい。

 「沖縄に行ったらまず慰霊だろう」というH殿の意見で空港からレンタカーで南に向かう。学生時代はH殿も当方も「沖縄を返せ」と歌った世代で、映画「ひめゆりの塔」も見た。1958年制作の最初の映画で津島恵子が出ていたのを覚えている。今調べると水木洋子脚本、今井正監督だったとあるがいつ頃見たのか、多分まだ小学生かせいぜい中学生で随分ショックだった記憶だけがある。

 さて、今の「ひめゆりの塔」は何台ものバスで訪れた修学旅行生で溢れていた。ノートを片手に熱心に記録している子もいれば、花束を買って供えている男子生徒もいてなによりも若い人が真摯に向き合っているのには好感が持てた。

 我々老人は彼等の後ろからちょこっと手を合わせただけで許してもらって、その後向かったのは摩文仁の丘、あの「平和の礎」のある平和祈念公園である。広大な祈念公園で戸惑っていたら電動カートが通りかかり、優しそうなお爺に「100円で案内するよ」と言われて渡りに舟で御願いする。

 歩いてはとても回れないと思う丘の上まで案内と説明をしてくださって「平和の礎」に24万という死者の名前が刻印されていること、沖縄県民だけでなく沖縄戦でなくなったとおもわれる日本中の人々の名や米軍兵の名も刻印されていることなどを再認識させられた。それにすべての都道府県の立派な慰霊塔があるということは初めて知った。それぞれの県が趣向をこらしてた慰霊塔を立てていて、県単位の慰霊祭も行われるというのでわれわれも岐阜県の塔に手を合わせた。

 追い詰められた人々が身を投げるしかなかったという断崖の果に静かに燃える「平和の火」。広島や長崎にも燃える「平和の火」だという。目を閉じ祈り平和の今の有り難さをつくづくと思った。

 

 

 

 

         秋澄むや祈るかたちに慰霊塔

 

 

 

 

 

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平和の火

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 岐阜県の慰霊塔

秋深し

エストニア紀行』  梨木 香歩著

 エストニアはいわゆるバルト三国のうちの一番北の国である。首都はタリン、面積は九州ほどで人口は沖縄県よりやや少ない。IT化が進んでおり安全で報道の自由なども高い国だという。長い間他国に支配された歴史をもち、中でも旧ソビエトの支配は過酷を極めたらしい。この本にも少しだがソ連軍による強制連行の話が出てくる。

 梨木さんは首都タリンから古い都のタルトゥ、さらに南下してヴオル、そしてバルト海に囲まれた島々へとほぼ一週間をかけてこの国をぐるりと廻る。古都には古い歴史が息づき郊外には茸やべりーの豊富で静かな森が広がり人々は純朴この上ない。

  「自給自足は出来てもお金持ちにはなれない」と村のおばあさんが図らずもつぶやいたようにこの国でも地方はやはり人口は減少している。人が減っただけ豊かな自然は戻ってきているとも。

 「『金持ちにはなれないけれど、自給自足はできる。』誰に媚びへつらうこともなく、誇り高くいきていける、そういうことであったのだ。」と後に経済危機に見舞われあたふたする日本で筆者はその言葉の本当の意味に思い至る。

 電柱や煙突のうえには重さ五百キロという大きなコウノトリの巣がかけられている。自然愛好家の筆者は人間のいるところが好きだというコウノトリとの遭遇を願う。しかし、北国の早い寒さの訪れでどうやら筆者とは行き違いに南の国に渡ってしまったらしい。

 紀行文には地図が欲しいと思うのだがこの本には付いていない。検索で出して確かめながら読む。写真は何枚かあるから赤瓦の古い街並み(まるでおとぎの国のよう)やら葦原の続く海岸線やら赤い縞模様のスカートの民族衣装などを見ることが出来る。素敵な手仕事がこの国へのいっそうの憧れをかきたてる。

 

 

 

 

 

        追分の標(しるべ)に秋の深みけり

 

 

 

 

エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦

エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦

 

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秋没日(あきいりひ)

 今朝起きるなり沖縄首里城全焼とのニュースがショック。実は来週家族で初めて沖縄を訪れる予定であり当然首里城の見学も日程に入っていた。何ということか、言葉を失う。

 

 ほぼ二年ぶりに養護施設に姉を訪問する。前もって甥に様子を聞いてはいたが、どんなになっているかかなり不安な想いででかける。案ずるより易し。「どちら様?」と言われることもなくこちらのこともちゃんとわかった。随分白髪になった当方をとらえて「私の方が若いくらい。これで20も下なのよ」とお仲間に披露する。車椅子になっている感覚がないらしく「何ならかけっこしようか」と意気盛ん。いまでも陸上選手や水泳選手だったことが誇りであるらしい。父や母がすでに亡きことはいつ行っても納得出来ないことらしく今回も信じられないよう。その時だけ「寂しいねえ」と泣きそうになる。

 認知症の出始めのころはいろいろ執着も多く周りのみんなを困らせたのだが今はすっかり穏やかで甥の言葉ではないが「ほんわか」としてまあまあ幸せな晩年かも知れぬ。「またね」と言って両手でしっかり握手をしたら暖かく柔らかい手で握り返してくれた。

 

 帰り、名古屋市美術館の「カラヴァッジョ展」に寄る。Tの説明によればイタリアルネッサンス後のバロックの時代の人らしい。宗教やギリシャ古典に題材をとったものが多く、それも凄惨な場面ばかりで少し気分が悪くなる。これがバロックの特色と言われればそうかなあという感じである。

 

 

 

 

 

        手をかざし自転車を漕ぐ秋没日

 

 

 

 

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そぞろ寒

朝から雨で気温が上がらず初めて暖房を入れる。

さて、このところ「食洗機」を入れようということでバタバタしている。食後、お尻の重い当方を見かねたこととこちらが入院中に片付けだけは面倒だったというTの意見を汲んでのH殿のおもいやり?である。

 ところが家の流し台では設置には広さが足りなくて造り付けの食器棚と流し台の間に補助のレンジ台がないと入らない。この補助の台をどうするかでリフォーム屋さんに相談したりネットで探したりして、やっとサイズと価格、見栄えのいいものを見つけた。

 しかし、H殿は何でもすぐにネットで買いたがる当方を批判して、ともかくまず目で確かめてきたほうがいいという。先週もネットで買った洋服が今一歩気に入らなかったのを見ていたせいもある。

 多分どうせネットで買うことになると思うがここはH殿の意見を入れてホームセンターやらニトリを廻って見ようと思う。どうせ入れるなら早いほうが嬉しい当方とはちょっと温度差ありである。

 

 

 

 

         昼間より鍵下ろしありそぞろ寒

 

 

 

 

 ウオーキングをしていてノコンギクを見つけた。

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外来種のようだがこれは何でしょう。

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朝寒し

『文学フシギ帖』 池内 紀著

 池内さんファンとしては読んでいてもよさそうなのに読んだ覚えがない。いつものごとく畳み掛けるような歯切れのよい語りっぷりと引き出しの多さに感嘆。

 「日本の文学百年を読む」と題して鴎外から村上春樹まで五十三人の作家を取り上げておられる、はずだが巻末の一覧表と内容が一致しないのがフシギだ。何回ページを繰っても「平野万里」と「吉井勇」の項が見当たらない。

 それはさておき、こんな読み方もあったか、こんな人柄だったか、こんな裏話が隠されていたかとなかなか興味深かった。

 へーっと思ったことから一部を書き出せば、漱石に猫ならぬ狸を主人公にした小編があるとか、啄木の死を看取ったのは唯ひとり牧水であったとか、『夜明け前』の第二部第一章はすべてケンベルの旅行記とハリスの口上書で占められているとか、井伏鱒二の「唐詩選」のかの有名な和訳に元訳になった古書があったとか。

 俳句に関心がある当方からすれば尾崎放哉の話。超有名な一句「口あけぬ蜆死んでゐる」はもとの形が「口あけぬ蜆淋しや」だったのを師の井泉水が添削した結果だったというのだ。師の添削ということは俳句ではよくあることだがこれだけがらりと重みが変わり代表作となるとフシギでならない。もっとも添削については放哉の死後のことである。

 詩人が何人か登場し詩に疎い身としては気になる何人かあり。今後の宿題である。

 

 

 

 

          足速の人追い抜きぬ朝寒し

 

 

 

 

文学フシギ帖――日本の文学百年を読む (岩波新書)

文学フシギ帖――日本の文学百年を読む (岩波新書)