浮いてこい

『新訳 説教節』 伊藤 比呂美著

 説経節に惚れた惚れたという伊藤さんの熱意に煽られて、説経節とはいかなるものやと手にしたこの本。「小栗判官」も「しんとく丸」も、みめ麗しき貴公子や深窓の姫君が思わぬ不幸に陥いるが、神仏の助けでめでたしめでたしとなる筋だてだ。なるほどなるほどこれは庶民の愉しむ娯楽、もとは寺の門前などでささらをすりすり語っていたというからに話の基本は神仏の縁起譚で「小栗判官」は熊野大権現、「しんとく丸」は清水の観音菩薩口承文芸であるお話のリズムを活かした新訳で、すらすらすらと読み進められる。詩人の伊藤さんの面目躍如、特にいいのは道行きのくだり。例えば盲目のしんとく丸が熊野を目指す道すがら

通り過ぎたのはどこですか

阿倍野五十町>をはやばやと通り過ぎ、

どこへいくのと聞きますか。

<住吉四社明神>伏し拝み、

どこへいくのと聞きますか。

<堺の浜>はここですか。

・・・・・・・

実はYouTubeでここのくだりを聞きたいと思ったのだが、残念。説経節そのものがなかったわけではないが省略されているのか語り手により違うのか。今は語りも三味線の伴奏で伊藤さんのお話ほどすらすらすらとはいきかねる。

 ところで「小栗判官」は美濃に深い縁があるとは知らなかった。売り飛ばされたヒロインの照手姫が下女をしていたのが美濃青墓の宿であり、照手は餓鬼阿弥を小栗と知らず青墓から大津まで土車を引くのである。めでたしめでたしと相成って天寿を全うした小栗殿が神として祀られたのが安八・墨俣の「正八幡宮」で、照手姫の祀られたのもその近くの「結神社」だという言い伝え。

 伊藤さんは説教節のヒロインたちの強さに惹かれるという。深窓の姫君たちであったはずなのに逆境に負けずいつも男性よりも逞しい。つまり弱い餓鬼阿弥や逞しい照手は実は仮りの姿などではなくて男や女の性の本質の一部ではないか、とのご意見だ。三人のお子さんを抱え離婚もし海外に出ても国のご両親を看取りと八面六臂の活躍をされてきた伊藤さんだけに納得させられる。

 あとこの本には「山椒太夫」も収録。鴎外の話と比べるのも面白い。

 

 

 

 

       あれそれと出て来ぬ名前浮いてこい

 

 

 

 

新訳 説経節

新訳 説経節

 

f:id:octpus11:20190625152512j:plain

 

 

 

夏至

『消えた国 追われた人々』 東プロシアの旅   池内 紀著

 Tが読んでいて面白そうだったから回してもらった一冊。読み応えのある話だった。かって「東プロシア」という国があったということも、その国の消滅に際して多くの人々が難民となったことも、また難民を乗せた巨大艦船が魚雷で沈没をして九千という人が一度に海に消えたということもこの本で初めて知った。

 東プロシアというのはドイツの飛び地でドイツ騎士団のつくった国、(もちろんこういう歴史も初めて知ったことだが。)今のポーランド北部・ロシア飛び地・リトアニアの一部を占め、首都はケーニヒスベルク(旧名)。カントが生まれコペルニクスやホフマンを輩出した国でもあるという。二百万もの人々が数百年に渡って暮らし続けた国がナチスの敗北で一挙に消えた。今はポーランド語やロシア語、リトアニア語に変わった町々の今を池内さんが訪ね歩く。バルト海の交易の富で築いたドイツ人たちの美しい街並みを、残している土地もあれば無残にも破壊された土地もある。ひどいのは「バルトの真珠」といわれたケーニヒスベルク(今はロシア領飛び地カリーニングラード)で、たどり着くのもきわめて不便ながらかつての街並みも無機質なロシア色らしい。さすがにカントさんの墓地は残っているということだが、さぞかし夢見も悪いにちがいない。

 なんでも検索してみるもので、池内さんならずともこんな辺境を旅している人はいるもので、昔を忍ばせる栄光の片鱗も無残な現実もたちどころに机上に出現する。東プロシアにあったというナチスの「総統大本営 狼の巣」も同様だ。ここも戦後半世紀以上がたって観光地化されているらしい。

 戦後半世紀以上といえば、近年になってドイツでも失地回復運動のようなものもあるという。ナチスの悪行で加害者としての責任ばかりが声高に叫ばれドイツ人の被害は禁句になってきたらしいが、戦争の犠牲者であることには変わりがない。日本だって空襲で無辜の命がおびただしく失われたのに、あの無差別空爆を糾弾する声は少ない。加害側、被害側を越えて戦争の愚かさや失ったものの重さはもっともっと明らかにすべきだと思う。

 バルト書いの保養町コルペルクにはドイツ人による立派な石碑が建てられているらしい。

  ウィルヘルム・グストロフ号

  バルト海沖沈没

  五十周年記念

  1995・1・28−30

 

 

 

 

 

         夏至の蝶右へ左へせわしなく

 

 

 

 

 

f:id:octpus11:20190622153045j:plain

 

植田

 弱った足腰を鍛えるべくとか思ったより回復してきた体重をこれ以上増やさないためとか色々思って冬の終わり頃から歩くようにしている。ひと月前にはぼんやり歩いていてもと万歩計を付けることにしたのだが、計ってみてがっかり。思ったほどに歩けていない。この万歩計は一万歩達成するとバンザイマークが出るのだが、まだ一度も出たことがない。健康に良いとされる一日八千歩もほど遠い有様だ。

 少しでも歩数を稼ごうと今日は日もやや落ちてきた時間から小一時間かけて薬をもらいに行ってきた。昔なじみの主治医は下の写真の山麓にある。案外涼しい風が吹いていたが西日をまともに受けて暑かった。途中で出会った男子の高校生が挨拶をしれくれたのには感激。うちの孫ほどの子だが感心なことだ。疲れて帰って万歩計を見たら5727歩。まだまだである。

 

 

 

 

 

        夕映えをうつし植田の静まれり

 

 

 

 

f:id:octpus11:20190617183810j:plain

 

川とんぼ

『最後の読書』 津野 海太郎著

 津野さんの生年は1938年とあるから当方とはたった7歳しか違わない。「老人、老人」と言われると現実なのだが他人事みたい。あとがきに

鶴見さんの「最後の読書」ーそれをみちびきの杖に、それにすがってあたりを慢歩する老人読書の現状報告

 とあるが、なかなかどうして、面白い読書報告であった。

 まずは、病で「話す力」も「書く力」もすべてを一瞬に失ったという鶴見俊輔氏がそれから三年半もの間、本を読み続けたという話。

書ければうれしかろうし、書けなくても習う手応えは与えられるとおもう。

彼の『もうろく帖』に引用されていた一行らしい(引用は幸田文「勲章」)が、われわれ凡人などにとってはいつまでも「習う手応え」でしかないのだ。それでも、できればそういう楽しみと意欲はできるだけ長く持ち続けたいと思うものだ。

 入江義高(中国文学の研究者らしいが残念ながら知らない)氏が病床での晩年、訪れた見舞い客に「私がもっとも辛いのはね、もう勉強することができないことなんです。・・・もう禅のテキストは読めないんです。」と答えたエピソードを紹介して

ー 本は読んでます?

ー うん、すこしだけね。でも硬い本はもう読めないよ。

そんなふうに消えてゆくことができれば、いうことがないのだが。

と永年にわたる「読書人としての矜持」を披露する話。

 山田稔さんの文章を読む時のかすかな「おそれ」のまじったたのしみや、須賀敦子さんの年譜を熟読して気づいた彼女の心の軌跡とか、心に沁みる話がその他にもいくつか。

 今度図書館に出かけたら手に取って見てみなければと思わされたのは伊藤比呂美さんの『新訳 説教節』と、池澤夏樹個人編集で古典を現代語に訳した一連の文学全集。確か町田康訳の『宇治拾遺物語』などは読んだからそれ以外のものである。

 足腰がもっと弱ったら、頭がどうにか働いて目もどうにか役に立っているかぎりは、縁側で半分うとうとしながら本をよむバアサンもいいかと思ってみて、はっと思った。今だって概ねそうか。

 

 

 

 

      音のなき動きしきりに川とんぼ

 

 

 

 

最後の読書

最後の読書

f:id:octpus11:20190616164415j:plain

 

 

 

茂り

『龍太語る』 飯田 龍太・飯田 秀實監修

 

 この本は龍太さんの晩年の聞き書きを纏めたもので生涯にわたる思い出話である。読んでいると龍太さんの人となりがわかってくる。華奢な体躯には似合わず豪胆で気骨があるとか、もちろんそれは『雲母』をスパッと終刊にされたことからでもわかることだが。以前知っていた先輩の俳人の方がまるで現人神のように崇めておられたがそういうカリスマ性を秘めた方だったようだが、師事するには残念ながら時代的に遅れた。

 「お客といっても俳人、俗に言えば弟子なんだけれど、こちらのサービスは徹底していた。三食は出さなければならない。・・・うちに限らず当時の俳句の先生はほとんどが持ち出しだった。」

 蛇笏さんの頃の句会の話である。龍太さんにも太っ腹なおもてなし精神は受け継がれていたらしく、境川のお宅でご馳走になったという話はあちこちで読んだし、この本でもお宅で客人をもてなす話が出てくる。戦前は地主で広い屋敷と家屋をお持ちであったからそういうことも可能だったのだろうが、それにしても奥様方の内助の功は並大抵のことではなかったにちがいないとどうでもよいことに関心がいく。

 福田甲子雄さんとの対談で「季感のない季語を使っている俳句が多くなっている」と最近の俳句を批判されていたことが心に残った。巻末に最後の自薦八十句が自筆のまま収録されている。いくつかは書き写したこともある句だ。改めてしみじみと読んだ。

 

 

 

 

           草も木も茂り重たし雨のなか

 

 

 

 

龍太語る

龍太語る

f:id:octpus11:20190613142151j:plain

 

梅雨入り

東海道ふたり旅』 池内 紀著

 「ふたり旅」のお相手とはどうやら「広重」らしい。副題に「道の文化史」とある。広重の「東海道五十三次」を行きつ戻りつしながら、当時の風俗・経済・文化などなどを紹介。例により語り口は歯切れのよい池内調で、知らず知らずのうちに日本橋から三条大橋まで、こちらは時々ネットで検索しながら地図を片手の紙上旅。旅を終えれば一廉の充実感あり。実地に歩いただけではこうはいかない。疾走するトラックなどの煤煙にまみれて、それらしき跡地を探し訪ねるだけに終わるだろう。

 それにしても広重の「東海道五十三次」は二十種類もあり版によっては随分絵柄が違うことも知らなかった。平面で奥行きをみせるために三角の構図をとっているというのも言われてみればなるほど。「く」の字型に曲がった道が多い。図版も載せられているが小さいから残念。ルーペを出してもよく見えぬ。そういえば昔、小さなカードが付いていたのはお茶漬けの袋だったかしらん。

 先程、ネットで田辺聖子さんの逝去を知った。田辺さんといえば『姥ざかり花の旅笠』が楽しかったが、あの作品を読んでもこの本でも江戸の道中というのは案外洗練されていたと感心するばかりだ。

 

 

 

 

     灯ともして書を繰るひとひ梅雨に入る

 

 

 

 

東海道ふたり旅: 道の文化史

東海道ふたり旅: 道の文化史

 

 

郭公

 「古代への旅」と名打って信州諏訪に出かける。諏訪へは昔初めての家族旅行(娘もまだ一緒だった)で出かけたことがあるが、今回は風光より古代史が中心で節約旅である。

一日目

辰野美術館

 中央道を走って3時間(途中で休む)。最初の目的地は辰野美術館である。公営の美術館であり割引もあって三人で700円の入館料。もうしわけがないようなお値段で内容は実に素晴らしい。文化程度が高い地域なのか郷土出身者の彫刻や絵画が展示されていたが、圧巻は縄文の出土品である。ややこぶりだが大地を踏みしめおへそを突き出し存在感のある「仮面土偶」を始め縄文土器の数々。人面土器も蛇紋土器もあり、全面にムカデ模様を彫りつけた背筋が寒くなるような土器もあり。「素晴らしかったです」と館の方に感想とお礼を言ったら「茅野もありますが、ここもなかなかのものでしょう」と誇らしげであった。

f:id:octpus11:20190606094158j:plain

f:id:octpus11:20190606094221j:plain

f:id:octpus11:20190606094253j:plain

 さすが信州。道端で「双体道祖神」を発見。可愛らしい。

尖石縄文考古館

 昼食後、茅野市の尖石縄文考古館へ。ここは有名な国宝土偶縄文のビーナス」と「仮面の女神」がある。前々から見たいと願っていたのでやっとご対面できたというところか。ここも土偶はもちろん素晴らしいが土器にも国宝があり、数も膨大だ。縄文遺跡がいかに多いか解説を見て感心する。おそらく豊かな広葉樹の森に囲まれて平和な時代が続いたにちがいない。そうでなくてはこんな遊び心のある生活具を創り出すゆとりは考えられない。縄文人とは一体どういう人だったのか、改めてもっと知りたいと思ったことだ。

f:id:octpus11:20190606104505j:plain

f:id:octpus11:20190606104543j:plain

諏訪大社本宮・前宮

 「縄文」のほか今回の旅のもう一つの目的は「ミシャグジ神(シャグジ神)」について知ることである。この神に関係が深い諏訪大社はご存知のように出雲から追放された建御名方神大国主命の子)を御祭神としている。今回の旅について調べるまでこの諏訪大社が四宮もあることは知らなかった。上社と下社があり、さらに本宮と前宮、春宮と秋宮と分かれる。全国に万という諏訪神社を持ち(うちの村社もそのひとつ)御柱という不思議な祀りでも有名である。巨木に囲まれ歴史を感じさせるお社である。我が家族は本殿の向きがどちら向きかこだわった。本宮は西向きということになり出雲の方を向いておられるのかと勝手に解釈したりしたのだがどうであろうか。

 

f:id:octpus11:20190606110819j:plain

本殿に通ずる長い廊下。右手に第一の御柱

神長官守矢史料館

 出雲から諏訪に来た建御名方神を奉ずる一団は、ミシャグジ神を奉ずる土着の一団と覇権争いをした。もちろん有史以前の話である。勝ったのは建御名方神を奉ずる一団で、以来ミシャグチ神を奉ずる一団の長(守矢氏)は諏訪大社の筆頭神官として諏訪大社に仕え、その神事を取り仕切った。神事は一子相伝で累々と明治時代の初めまで続いたが世襲制が崩れてそれは途絶えた。この史料館はその途絶えた守矢氏の神事の一部を伝えるものである。

入るといきなり剥製の鹿や猪の頭が壁一面に掲げられているのに出会う。兎の串刺しや魚もある。「御頭祭」という諏訪大社の神事の再現ということだ。もちろん現在のことではなく江戸時代の話で、これは菅江真澄の見学記録を参考にされているらしい。狩猟民の資質を色濃く残す守矢一族の取り仕切った祭祀らしい姿だ。

f:id:octpus11:20190606125012j:plain

 では守矢氏の奉じた神はどうなったか。この史料館の裏手に神体山(守矢山)を後ろに小さな祠がある。巨木に囲まれた祠がミシャグチ社である。諏訪信仰と一体化したような形でかっては神使(おこう)の少女らが諏訪地方の村々のミシャグチ神を巡回したという。

f:id:octpus11:20190606130059j:plain

ここの特異な形の神長官守矢史料館は藤森照彦さんの設計である。これに纏わる話は藤森さんの本や赤瀬川原平さんの本でも読んでいたので実物を拝見するのがとても楽しみだった。御柱よろしく柱が屋根を突き抜けている。なおさらに裏山には藤森さんの「空飛ぶ泥舟」や「高過庵」「低過庵」もある。史料館の方がとても熱心に解説をしてくださったので充実した見学ができた。

ミシャグチ神をお参りしようとしたら「カッコウ カッコウ」と鳴いて鳥が社叢に飛来したのにはびっくり。初めて本物の郭公にであった。

 

f:id:octpus11:20190606131504j:plain

f:id:octpus11:20190606131531j:plain

f:id:octpus11:20190606131604j:plain

f:id:octpus11:20190606131634j:plain

二日目

霧島高原

 古代史の見学もおおかたすませたので少しは風景もと霧島高原まで行く。途中レンゲツツジの群落もある。山の上はシーズンオフのせいか天候のせいか閑散としたもの。名前とおり霧が湧いてきて景色どころではなくそうそうに下山する。

f:id:octpus11:20190606132210j:plain

諏訪大社秋宮・春宮と万治の石仏

 昔(25年前)来たのは秋宮だったか春宮だったか、決めかねて行ったり来たり。記憶というのは曖昧なものだ。

 「万治の石仏」は初めて。願い事の祈り方が説明してあったので病気が治るようにおねがいする。これで今回の旅の目的は終わり、案外早くの帰宅になった。

f:id:octpus11:20190606133004j:plain

 

 

 

 

 

           郭公や神体山は真向かいに