明易し

鵙の雛たちがいなくなってから庭が静かで寂しい。巣立ちをしてからちょうど二週間だったなあとぼんやり思いながら草を抜いていたら、目の前の柿の枝にぴゅーと一羽の鵙。「おや、鵙くん」と思ったらもう一羽ぴゅーと。尾羽の短い子鵙である。まるで「こんなになりましたよ」と見せにきてくれたみたい。親鵙が直ぐに畑の杭にとびうつったら子鵙もついて飛び移る。甘えん坊の一羽だろうか、まだ親にくっついている。

 このブログを見ていてくださる方が鵙が人から虫をもらう動画を紹介してくださった。それを見ると鵙も案外人に慣れるものなんだと感心する。

https://www.youtube.com/watch?v=GcCc2fS9u-A

鵙が煩くしなくなったら早速猫がやってきた。白いろで尻尾が縞々の新顔だ。

 

 

 

   明易き夜を身の上の談(はな)しかな  井上 井月

 

 

 

 

f:id:octpus11:20190518204940j:plain

マリリスが真盛りです。

山藤

『三つ編み』 レティシア・コロンバニ著 斉藤可津子訳

 国も境遇も全く違う三人の女性の話を「三つ編み」のようにあざなった物語。キイワードは髪と自立。歯切れのよい畳み掛けるような文体と素早い展開で一気に読ませる。帯によればフランスで85万部突破32言語で翻訳決定とある。

 三人とはインド人のスミタ・イタリア人のジュリアそしてカナダ人のサラである。

 不可触民のスミタは娘を学校に通わせ悲惨な暮らしから抜け出させたいと思うのだが教師は賂だけ受けとりその願いを聞きとどけなかった。娘に教育を受けさせたいその一念でスミタと娘はふるさとを抜け出す。無一文に近いありさまで強い意志とヴィシュヌ神への信仰だけを支えに。

ジュリアは父の毛髪加工会社で働くむすめだ。父が事故にあって意識不明となったのきっかけに会社が倒産の危機にあることに気づく。窮状を脱するのに母は意に染まぬ男性との結婚を進めるのだが・・・。

サラは一目置かれる有能な弁護士。私的な顔と仕事を完璧に分け弱みは見せない。その彼女に乳癌が見つかった。いつもと同じように病気を隠し通そうとするのだが事情は知れ渡り職場の眼は微妙に変化していく。

最後は三人が三人とも陥った窮地から自分の力で這い出していこうとすることで終わる。その力強さがこの物語が多くの人に支持される所以にちがいない。あとがきで訳者がこの小説が支持されるのは「フェミニズム小説」という側面があるからと書いておられる。「フェミニズム小説」というのがどういうものかよくわからないがそういう見方もあるのかと思う。

 この三人のうちで一番過酷な状況と思われるスミタ、彼女の行く末が気がかりでならない。

 

 

 

 

         山藤やかんぬき堅き地蔵堂

 

 

 

 

三つ編み

三つ編み

f:id:octpus11:20190517124810j:plain

f:id:octpus11:20190517124834j:plain

f:id:octpus11:20190517124914j:plain

ハーブの花が咲き始めました。上からチャイブ・カモミール・セージです。

 

 

薔薇

百人一首がよくわかる』  橋本 治著

 いつも拝見しているブログで新潮社「Webでも考える人」というサイトを教えていただき、そこで津野梅太郎さんの橋本治さん追悼文を読んだ。津野さんは内田樹さんの言葉を引いて

 そのつど「説得でも教化でも啓蒙でもない」と内田がいうかれの説明する力のたしかさとやさしさに舌をまいた

と書いておられる。その「やさしさのある説明」に触れたくてまずはこの1冊。

 百人一首は昔むかし高校一年生の冬休みの課題であった。なんでも今でも母校はこの伝統があるようで休み明けのテストに備えて必死に覚えた思い出がある。もちろん授業でやったわけではなく我が家に歌留多とりという優雅な習慣もなかったのでそれ以来というわけだ。しかしまあ大体は覚えているわけで若い日の勉強というのは侮れない。今回大間違いに気付いたのは

八 喜撰法師「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」の一節である。

 「しかぞ住む」は「鹿が住む」じゃありません。「然ぞすむ」で「こんな風に住んでいる」

のですよということ。と橋本さんはやさしく教えてくださる。てっきり「鹿が住んでいる」と五十年思い込んでいた私は全く恥ずかしい。だってうぢ山でしょ、鹿が居るんじゃないとまだ言い訳したい気分。橋本さんはこの他歌の意味や並び方の妙、作者の経歴もやさしく教えてくださるのだが、まあまあどうしてこんな軟弱な男ばかりだろうと呆れるばかりで、まだ情念を赤裸々に詠んだ女の歌のほうが好もしい。百首の内一番好ましいのはと考えて

三三 紀友則 「ひさかたの 光のどけき 春の日に しず心なく 花の散るらむ

を選んだ。

九八 従二位家隆 「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」

なども爽やかでいいのですが。

橋本さんのやさしく教えてくださるシリーズ他のものも読みたいと思う。

 

 先月末のPET検査と内視鏡検査の結果を聞きに行く。期待して行ったのだがまだ少しだけ気になるところがあるとのこと。もちろん転移などがないだけでも喜ばねばいけないのだが。

 

 

 

 

       苗札の花の色見て薔薇求む

 

 

 

 

百人一首がよくわかる

百人一首がよくわかる

f:id:octpus11:20190513141959j:plain

f:id:octpus11:20190513142036j:plain

f:id:octpus11:20190513142059j:plain

昨日「大野町バラ公園」というところに行ってきました。大野町はバラの苗の出荷が日本一だそうでバラをコンセプトに町起こしをされています。苗が廉価で我が家も二本買ってきました。赤と黃です。  

はつ夏

 鵙の雛は元気だ。午前中、ぱたりと声がしなくなったのでとうとう独り立ちをしたのかとちょっと寂しく感じたのだが、お隣の庭にいたようだ。午後はまた我が家の木で餌をねだっていたが、突然方向も考えずに飛んで雨戸に衝突するハプニングも。脳しんとうでも起こしたかと心配したのだがどうにか近くの松の枝に留まった。こんな様子を見るとまだまだ子どもだ。

 乾燥した晴天続きで鵙の子育てには幸い、雨に弱いイチゴも大豊作だ。反面植え付けたばかりの夏野菜の苗はみんなぐったり。枯れてしまったのもありH殿は買い直したりして苦戦中。全部に都合よくとはいかないようだ。毎日籠に一杯のイチゴはデザートだけでは食べきれずにジャムにする。もっともレンジを利用した安易な方法でイチゴと砂糖とレモン汁をチンとするだけ。

 

 

 

 

 

        はつ夏や女子も負けずに川遊び

 

 

 

 

f:id:octpus11:20190511211533j:plain

 

f:id:octpus11:20190511211818j:plain

我が家のゴソゴソ庭も今が一番いい季節です。

 

柿若葉

鵙の雛たちが巣立ちして八日目、過眼線も目立ってきてこんなに大きくなった。三羽とも元気であちらこちらと枝移りも軽やかだ。まだ親鳥に餌をねだっているが時々地上にも飛び降りたりしてるから餌取りのまねごとかもしれない。この間親鳥は本当に一所懸命に子育てをした。あんなによく来た鴉がまったく寄り付かなかったのも親鳥の必死さにうんざりしたからにちがいない。一度は青大将を追い落とすのも見た。雛のよく留まる南天に青大将が上ったのを見つけて親鳥がつついて追い落としたのである。それほど太い蛇ではなかったがそれでも一メートルほどはあった。例年ならこの時期は桜や梅の毛虫に悩まされるが、今年は全くいない。これも鵙くんのおかげかと夫と言い交わしている。

f:id:octpus11:20190510210110j:plain

f:id:octpus11:20190510210137j:plain

こちらは今日は今年になって一番の暑さだったが、やっとシンピジュームと君子蘭の植え替えをした。世話が大変になったので鉢数を半分にしたがそれでもまだある。かわいそうでそんなには捨てられない。

f:id:octpus11:20190510210538j:plain

 

 

 

 

          柿若葉日に日に影を広げけり

 

椎の花

『モンテレッジオ小さな村の旅する本屋の物語』  内田 洋子著

 きっかけは「ヴェネツィアの水先案内人であり知恵袋である」老舗の古本屋の始まりが、山岳地帯の辺鄙な土地モンテレッジオ出身の本の行商人と知ったことだ。「本の行商人とは」彼女の興味はそこから始まった。山また山を越えて訪ねた村は住民は僅かで消え行くような古い村。村には籠に古本を詰め込み抱えて売り歩く屈強な男の姿を模した石像が立っていた。ここを拠点に村人は本の行商を始め本屋を営み出版社を興すまでになっていったのだ。本の行商を始めたのは貧しさゆえ。災害で立ち行かなくなった農業の代わりに村の唯一の品物、森の栗や山の石を売り歩き、帰り荷に暦や祈祷書を持ち帰って売り歩いたのが始まり。行商人はときには禁書を運んで独立に寄与しファシズムにも抗い、過激な恋愛物も運びバチカンに警戒された。しかし顧客の好みに応え隅々まで本という情報を届け、本の流通システムを作り本を通して文字通り文化の担い手になったのだという。

 さて、現代のイタリアでの出版事情は全く今の日本に酷似する。つまり本を読む人が減り本屋も減り出版社は自転車操業のごとく新刊本を次々とだすという現実だ。そしてさらに状況を厳しくしているのがインターネット書店だというのも変わりない。しかし書棚の数多の本の中から好みの本を探し出す書店の楽しさは代えがたいと筆者は説く。

 本屋巡りが好きだった当方だが最近はすっかりご無沙汰だ。ご無沙汰なのは本屋に限ったことではないのだが、本に関しては老い先短いのでこれ以上ものを増やしたくないという気がある。本屋さんには悪いのだが図書館だけはしっかり利用しているから本を読まないわけではない。まあ当方が買わないぶん家人が買っているので勘弁願いたい。イタリアの本屋の歴史はわかったが我が国の場合はどうなのだろう。本の行商人などということは聞いたことがない。行商とはちがうが職場に本を売りにくる人はいた。文学全集やら百科辞典は割賦販売で買った気がする。毎月児童書や雑誌を届けてくれる本屋さんもいた。学校帰りに寄った本屋、仕事帰りや買い物ついでに寄った本屋、つらつら思うに昔通った本屋はみんななくなってしまった。

 

 

 

 

     椎の花ひときはしるき夜のかをり

 

 

 

 

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語

モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語

f:id:octpus11:20190507220027j:plain

先日出かけた折りに手に入れました。長い間欲しかった「都忘れ」です。

 

夏来る

 十連休も終わった。毎日が日曜日の我が家には関係ないと思っていたが、後半は娘一家の訪問やら今日の「落語会」など非日常的なお楽しみもいくつか。

 今日の落語会はたまたま新聞販売店の案内で申し込んだもので「東西落語名人会」と名打った企画である。桂文珍さんと三遊亭小遊三さん・林家たい平の競演。落語はテレビやYouTubeで聞いていたがやっぱり生は違う。久しぶりに大笑いをした。大笑いをすると涙が出るっていうのは本当。

 終演後外に出たら予報通りポツポツと降り出し帰り着いた頃には稲光も。鵙の子たちは大丈夫かと心配になる。今日で巣立ちから四日目だがまだ三羽とも元気にしているようだ。なかなか独り立ちはできなくてまだ餌をもらっている。それでも親の警戒鳴きは少し減ったようだ。

 

 

 

 

     子に母にましろき花の夏来る  三橋 鷹女

 

 

 

 

f:id:octpus11:20190506205310j:plain