線香花火

 「盾」という言葉が気になっている。というのは、一昨日の新聞、「日米2プラス2」を終えた小野寺防衛大臣の発言。

 自衛隊の役割拡大に記者団から質問が飛ぶと、小野寺氏は「専守防衛の中で、(日本に託された)『盾』の役割を万全にする中での新たな方向だ」と述べるにとどめた。

  とある。小野寺氏は日本の役割をはっきりと「盾」と言っているのだが「盾」とは一体何か。一般的には「敵の攻撃から身を守るための防御用具」というところだろう。が、「一番大切なものを守るために前に塞がるもの」という意味ともとれるであろう。つまり日本は米国を守るための「盾」に考えられているわけだ。これでは全く本末転倒ではないか。この「盾」という役割発言にマスコミも強く反応していなかったので、私は奇異に感じたがこちらの感覚がおかしいのか。何だか腹に落ちかねてここに書いてしまった。

 

 夏休みも夏らしい日々が少ないままいよいよ最終章。昨夜は身近な花火の音を聞きつつ入浴。

 

 

 

 

     目を集め線香花火の玉太る

 

 

 

 

f:id:octpus11:20170821071808j:plain

鯔(ぼら)

「空席日誌」 蜂飼 耳著

 変わったペンネームだ。以前、Tにこの著者の別の本を薦められた時、「男性なの?女性なの?」と聞いた気がする。今回もやっぱり同じことを聞いて「そうだ女性だった」と思い出した。多才な人である。紹介を読むと、詩人としての活動が中心のようだがエッセイ・小説・絵本・翻訳と広範囲にわたる著作活動。この本はその内のエッセイと短編小説か。エッセイといっても全て見開き2ページの長さ。散文詩ともいうべき吟味された文章。どの話も静謐な印象がのこるのはなぜだろう。多分、筆者が自分が感じ取ったものに、丁寧にしっかりと向き合っているためだろう。私にはちょっと耳にした会話やちょっと目にした光景などからこんなに話を紡ぐことはできない。やはりこれは感性の披瀝というか、詩なのですね。

 出雲に出かけた話がある。歴史と自然が調和したいいところだったなあと昔の旅を思い出す。

過去からのにおいが低く流れて、迫ってくる。 過去が、過去の分厚い層から剥がれ、ひらひらと降ってくる。捕らえることはできない。ただ、眺めるだけだ。・・・浜辺へ出ると、わかめが打ち寄せられ、休んでいる。拾われることのない、ぐったりとした深緑の断片。「今」という時に挟まれた栞のように、それはじっとしている。

                      「猪目洞窟」から

  トシヨリになったせいか早寝早寝のリズム。一時と比べると、このところ「夜明け」が遅くなってきたなあという感じ。朝もしきりに虫の鳴き声。

 

 

 

 

 

     鯔跳ぶや出雲の国は水近し

 

 

 

 

空席日誌

空席日誌

稲の花

「さい果て」 津村 節子著

 この筆者の作品は、「紅梅」や「夫婦の散歩道」など吉村氏没後の思い出を書いたものしか読んだことがない。が、たまたまTが古本屋で仕入れてきた山積み本の中の一冊という縁で手に取る。「さい果て」とひとくくりになっている五編だが、最初はそれぞれが独立した短編として発表されたもの。この内「玩具」は芥川賞、「さい果て」は新潮同人雑誌賞を受賞している著者若き日の作品である。貧しさの中でも作家を志すやや偏屈な夫や、さい果ての地まで流れて行商をせざるをえない夫婦の貧しいたつきの様子など、私生活に題材を得たと思われるところも多いが、決して私小説ではあるまい。後書きで筆者もふれているが、女主人公の幼さに筆者に重ね合わせることは出来ないし、身勝手な夫に吉村氏を重ねることも出来ない。戦後という日本中が貧しかった時代に、さらに貧しい若い夫婦の危うげながら徐々に結びついていく話として、読ませる点は充分あった。

 吉村氏亡き後のエッセイで、筆者は夫婦が同業であったことを振り返って、お互いの作品は読まなかったというようなことを書いていたが、それはそうであろう。いくらフィクションでも読めば穏やかではなかろうと思う。賢明なお二人だったと思うばかりだ。

 

 お盆の片付けもすんで八月も半分残すばかりになったのにい、いっこうに夏休みらしき空は見られず。Tの話では補習のある高校生などはもう学校が始まるらしい。

 

 

 

 

     さわさわと陸奥も果てなる稲の花

 

 

 

 

さい果て (ちくま文庫)

さい果て (ちくま文庫)

秋黴雨

 庭の一本の柿の木が倒れた。先日蝉といっしょの写真をあげた木である。大往生といっていい、百年近い経年木である。何となくこのところ葉が萎れているように思っていた。たまたま見ていた娘婿の話では、雨の中、静かにふわりと倒れていったらしい。この夏の雨の多さが弱らせたのかもしれない。雨水が流れ貯まるところに植わっていた。

 不思議な木で昔からずっと二メートル足らずの小さな木で、実も渋柿と甘柿が混在していた。甘いものは果肉に胡麻斑が出て早くから食べられたが、胡麻斑のないものは干し柿にするしかなかった。うちでは「油壺」と呼んでいたが、正しい呼び名かわからない。今年もいくつか実をつけていたのに、もうまぼろしの味となってしまった。手頃な高さなので子どもが小さい頃はよくぶらさがっていたことなども思い出す。

 いささか感傷的と思われるだろうが、見慣れた景色が変わったのが寂しい。

 

 

 

 

     わが齢超ゆる木の果つ秋黴雨(あきついり)

 

 

 

 

f:id:octpus11:20170816082108j:plain

敗戦忌

 72回めの敗戦記念日。テレビの黙祷の時間に合わせて黙祷。まさか北朝鮮と米国との狭間でこんな敗戦記念日を迎えるとは思わなかった。米大統領は同盟国の安全を全力で守ると宣言していたが、何か勘違いをしているのではないか。日本は北朝鮮に攻撃されるいわれはない。攻撃されるとすれば米国の基地のゆえだ。核の傘で守られているのではなく、核の傘の下だから危険なのだ。こんな単純なことが指導者たちにはなぜわからないのだろういか。

 Y一家を迎えていつもの盆行事。孫達も大きくなったのだが恒例の庭花火大会を。大人もしばし童心に帰る。

 

 

 

 

     飯盒に古びし眼鏡敗戦忌

 

 

 

 

f:id:octpus11:20170815140641j:plain

盆支度

 久しぶりにからりと晴れる。日差しは強いが風があり過ごしやすい。今朝は外の風のほうがよくて、珍しく冷房を切った。鵙の初鳴きを聞く。去年は19日だったので、更に早い。いかにも早いのだが、夫も一緒に聞いたのでまちがいはない。

 昨日は盆支度。我が家は浄土真宗なのでたいした用意はないのだが、仏壇を整え岐阜提灯を出す。提灯も本当は二つで一対なのだが去年から一つだけに省略。トシヨリになるとなんでも面倒になり、それでつい勝手をする。怠けていると体力が落ちるばかりなので半日はなにやかやと身体を動かすことにはしているのだが。

 

 

 

 

     仏間にも風を通して盆支度

 

 

 

f:id:octpus11:20170813142931j:plain

法師蝉

津軽」 太宰 治著

 「こころ旅」で津軽半島を映していて、この本が話題になった。Tがいい本だと言い、部分的に覚えているような気もしたが、読み返すことに。

太宰自身の手による故郷探訪である。昭和19年の話らしいが戦争臭はほとんどない。太宰らしくない(と言っても太宰については詳しくはないが)明るい実に素直な故郷讃歌である。人も風景も信じられぬほど優しい。ホロリとさせられるのは幼い頃母とも慕ったたけとの再会。彼が自分の精神のルーツに気づくくだりである。

 ああ私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気付いた。

 これは悲しみではなく、喜びの述懐だ。解説で亀井勝一郎が、彼の「全作品の中から何か一遍だけ選べと言われるなら、この作品を挙げたい」と書いているが、いい作品である。

 

 法師蝉が「もういいかい、もういいかい」と夏の終わりを告げ始めた。夜、横になって電気を消すと虫の声も。

 

 

 

     

     湖へ下る坂道法師蝉

 

 

 

津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)

 

f:id:octpus11:20170811171515j:plain