水を打つ

「夜と霧」 ヴィウトール・E・フランクル
 池田香代子訳の新版である。河野の本で取り上げられた霜山訳とは多少ちがうところがあるような気がした。あとがきで訳者も旧版とはかなりの異同があると述べているが、読み比べていないのでよくはわからない。ただかなり淡々とした冷静な筆致の分析的体験記という読後感であった。もちろんその体験は考えられないほどの悲惨な体験なのだがそれが人間の精神にどんな影響を与えたか、感情の消滅や鈍磨の事例もあった。しかし「最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうであれわたしを見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた」と答えた。生きている意味はあるのかという問いには「収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳をまもる人間になるかは、自分自身が決めることなのだ・・・まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ」このようにフランケルは生きている意味が「皆無の生にも意味はあるのだ」と語りかけた。
 さらにフランケルはこう語る「人間とはなにものか。人間とはなにかをつねに決定する存在だ。」と。ガス室を発明もしたし、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあったと。

 山の日。あといくつかで百名山踏破という友人もいるが、私は全く駄目。せめて今日は山の名句を残した前田普羅の一句でも。


   立山のかぶさる町や水を打つ      前田 普羅


夜と霧 新版

夜と霧 新版