冬帽子

「あの頃」 武田百合子

 信じられないことだが新刊なのである。没後25年、花さんもお歳を召されてきて、自分の元気なうちにと未収録のものをまとめられたらしい。同一人物だから当たり前だが「富士日記」の百合子さんを彷彿とさせる。帯に「たぐいまれなる文章家」とあるが、確かに読ませる文章だと思う。500ページもある厚い本で(行儀悪く寝っ転がって読んでいると重くて手が痛くなる)読み終えるにはどのくらいかかるだろうと思ったが半分ほどは読んだ。半分は題名どおり「あの頃」の話で、泰淳さん亡き後の思い出が多い。悲しいとか寂しいとか書かない人なので(美しいというのを美しいと書かないと書いておられる)思い出を詳しく詳しく書かれるとこちらにも寂しさや悲しさが伝わってくる。いい話がいくつもあった。

 後半はテレビや映画の話なので、どんなものだろうか。読み通せるか、ちょっとわからない。

 

 今日の朝刊で源一郎さんの新書の宣伝を見つけ、珍しく購入した。もう明日に届くらしい。年賀状が気になっている。なかなかその気にならなくてまだ手が付けられない。新春準備もなんにも。ただお年玉だけは下ろしてきた。

 

 

 

 

     街角の地蔵菩薩の冬帽子

 

 

 

 

 

十二月

「薬石としての本たち」 南木 佳士著

 以前、この人のエッセイ集『猫の領分』を読んで友人に「なかなかよかった」というようなことを言ったら「暗いから」と軽く否定されたことがあった。確かに語り口が暗い。「臆病な思考回路」とあるとおり自省的で、ああでもないこうでもないと逡巡する文章だ。この手のつれ合いだったらうんざりかもしれないが、第三者としてなら嫌いではない。まじめすぎるほどまじめな人柄に、惹かれるものがある。

 この本は、苦手な講演を頼まれた際、来し方に薬石のように頼ってきた本を挙げて、自分を紹介するのはどうかと思いついた結果らしい。挙げられた本は八冊。医師である彼の生業に関するのもあれば、一時心を病んだ時、糧になった本もある。八冊のうちでこちらの既読本は一冊『マンネリズムのすすめ』だけ。これも先の本で彼の薦めを読んだからのような記憶がある。ノートに書き写していることからすると惹かれたことは確かだ。もう一度読みなおしてみたくなったが、他にも読みたいと思ったものは『脳を鍛えるには運動しかない』。いずれも図書館にあるようなので追々読めればと思う。それにしても先に読んだエッセイ集と今回の本とで著者の来歴は概ねわかった。そろそろ老齢の域に達せられた筆者がその後をどのように処されていくか、今度はそんなところを聞きたいものだ。

 

 雪こそ積もらぬが連日の寒さ。ルーチンになっている家事以外は読書と編み物で鬱々として根が生えてきそうだ。そう言えばこの本に引用された言葉にこんなことがあった。

 雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界はそれ自体として陰鬱なのであり、その一点景として私もまた陰鬱な気分になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身が晴れがましいのであり、その一前景としての私も又晴れがましい気分になる。・・・天地有情なのである。その天地に地続きの我々人間も又、その微小な前景として、その有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない。

                            大森荘蔵の言葉より

 偉そうに御託を並べても「心の中」とは所詮そんなもんだということなのだろうか。

 

 

 

 

     ひもすがら空しき老いの十二月

 

 

 

 

薬石としての本たち

薬石としての本たち

 

 

冬ぬくし

「心をたがやす」 浜田 晋著

 正直に言ってこの方は存じあげなかった。たまたま図書館で手にした本である。初稿は二十年も前のものらしい。もうリタイアされたが町居の精神科医であったらしい。若月賞を受賞されている。真面目でヒューマンな方である。バブル期の地上げで下町の人間関係が崩れていくのを怒っておられる。居場所をなくした老人たちが「病い」へ追われていくのを嘆いておられる。ゴルフ場に切り開かれてまだらになった山野、休耕田と称して荒れた水田、老人ばかりが残った田舎、浜田先生の怒りと嘆きは止まらない。正直な方である。終戦直後の医学生の頃、無知で人を死なしてしまったと言われる。精神科医なのに酷い不眠で睡眠薬を常用しているとも、いろんな不都合が重なった時「前痴呆状態」になったとも認められる。

 だが何よりも患者に寄り添った良医であることは、幾つか取上げられている症例で納得できる。

印象に残った話や言葉はいくつかあったが「食べる」として書かれた一章のお終い、ある老婆が市場で笹かれいを品定めしてやっと一尾に決めた瞬間の顔のこと。

老い」もまんざらではないぞ、何も、年とってゲートボールを初めたり、カラオケを初めたりすることはない。

 喰うこと、それは「生の輝き」ともなり、文化ともなるのである。

  最近はたいしたことは何もしてないが、安くて美味しいものを考えて献立表だけは作る。姉も施設に入る前までは習慣だった。

 

 

 

 

     いたわりの小さき言葉冬ぬくし

 

 

 

 

心をたがやす (岩波現代文庫)

心をたがやす (岩波現代文庫)

 

 

木枯

「語りかける花」  志村 ふくみ著

 書評や自著で源一郎さんや若松英輔さんさんが高い評価をしておられたので手にした一冊。染織家で人間国宝、その方面の高名は周知のとおり。以前「桜の幹が桜色をだす」というような文章を読んだこともある。

 それにしても色彩に溢れた華麗な文章である。一字一句が吟味された言葉で織られたような文章で、読み飛ばすということが出来ない。自分史のなかで出会いのあった人々、染織家を目指したきっかけ、様々な色彩を生み出してくれる自然への畏敬の念、いずれも謙虚な姿勢の中に凛とした厳しさを秘めて恂恂とした語りぶりである。

ある日、ほとほとと扉をたたいて、白い訪問者がおとずれる。その時、私達は扉を開き、快くその訪問者を招じ入れなければならない。 誰もその訪問者をこばむことはできない。老とはそんなものである。・・・・・・・私はこの友と二人でお茶を飲み、羹(あつもの)をじっくりとおいしく煮込み、時の熟する音をこころよく聴き、時には共に旅に出ることもあるだろう。若い時の尖った神経がまるくなって、明け方の胸の痛みも消え、美しいものの近づいて来る時の鈴の音がきこえるようになるのも、この友と深い交わりを結ぶようになってからのことになるだろう。もし、第五の季節があるならば、めぐり合えるかも知れない。

 ひときわ心に残った一節である。

 

 

 昨日は二十四節気の「大雪」。本格的な冬の到来である。この辺りはまだ雪は見ないが一歩奥はもう積雪の便り。

 

 

 

 

 

     木枯やみんなさらつて空広し

 

 

 

 

語りかける花 (ちくま文庫)

語りかける花 (ちくま文庫)

時雨

「日本の詩歌」 大岡 信著

 これはフランスで行われた日本文学の詩歌に関する講義の原文である。対象が外国人であることと話し言葉の記録であることから、多分読みやすくわかり易いだろうとTから借りた。

 中身は菅原道真漢詩から始まり、古今集から始まる勅撰和歌集と代表的な女流歌人そして中世後期の歌謡についてまでである。

 道真については政治的に不遇な生涯と天神さん信仰ぐらいしか知識がなかったのだが、その漢詩というのを初めて知った。大岡さんの現代語訳を通じて読む漢詩は現代詩とも言ってもいいほど社会的政治的で「自己主張」を持った内容だ。彼が讃岐の国にあった時、詠んだといわれる「寒早十首」という連詩は、いずれも第一行目に「何れの人にか寒気早き」(どんな人に寒気はまず身にこたえるか)と置き、貧しく生きることにに喘いでいる庶民を歌っている。また権力者の腐敗を糾弾する詩もかいており、とても千年以上も前の人物とは思えない、もっと顧みられるべき詩だとも思う。

 道真の漢詩は結局歴史の彼方に埋もれてしまって日本の詩歌の主流になったのは和歌であったのだが、和歌は形式としては極めて短い。それゆえに「外界の描写と内面の表現と一体化させる場合が多い」と大岡さんはいう。その辺りはもっと短い俳句なども一緒で、「物に託して心を詠む」などと教えられたことはそういうことかもしれない。よく詩を内容に照らして叙情詩・叙景詩・叙事詩などと分類するが日本の詩歌ではそのへんが非常に曖昧で叙景詩はまた叙情詩でもあったというのである。そして、詠まれた内面は圧倒的に恋心が多く、代表と挙げられたのは笠女郎や和泉式部式子内親王の女流歌人後宮文化に支えられた女性の活躍を世界の歴史でも異例のこととして紹介している。

 最後に触れられたのは「梁塵秘抄」や「閑吟集」といった俗謡である。残存しているものはかって収録されたもののほんの一部分らしいが、名もない庶民のエネルギーや信仰心をうかがい知ることができる。これらの歌い手の多くは遊女といわれた人々であったらしく、ここでもやはり昔の女性たちのたくましさが思われる。

 かつて読んだ本で丸谷才一さんは「日本文学史は詩歌の文学史である」というようなことを書かれていたが今回の読後感もまさにそんなことを考えさせられた。

 

 

 

 

 せめて時雨よかし ひとり板屋の淋しきに   閑吟集

 

     (せめて時雨でも降ってくれ、わびしい小屋での独り寝はさみしいからなあ。)

 

 

 

 

 

 

ちゃんちゃんこ

「日本の『アジール』を訪ねて」  筒井 功著

 「アジール」という言葉を知ったのは網野さんの本であったと思うが、むろんそれは中世の話であった。この本はそのアジールが二十世紀の半ごろまで存在し続けていたという事実をレポートしたものである。

 「アジール」とは何か。本来ヨーロッパの言葉であるこの言葉には日本語として適切な翻訳語がないという。強いて言えば、「何らかの形で国家権力や法律制度の枠外にある地域」ということで無籍・非定住の人々の住むところをいうらしい。無籍・非定住の人々とは、粗末な小屋や洞窟・テント掛けに暮らし漂泊を常としていた人々で、なりわいとして細工系と川漁系があるという。細工は多くが箕づくりでそれゆえ「ミナオシ」などという蔑称で呼ばれた。聞いたことのある「サンカ」というのも蔑称のひとつで、中世の「坂の下者」が変化したものでないかと筒井さんは考察している。(筒井さんは三角寛のサンカ考には批判的である)単なる乞食集団と違ったのは彼らがれっきとした職能人であったことで、その箕などは外から加わったものが真似られるものではなかったという。しかし籍を持たず定住せず文字も知らずというので差別され続けたようだ。

 いずれにしても、こういう差別をされた人々がまだ半世紀前までこの国に存在していた事実が非常に不思議で驚かされた。この前読んだ井上ひさしさんの「新遠野物語」は洞窟に住む老人が語り部になる話だったが、この本を読めばその設定が全く架空ではないかもしれないと思ったことだ。

 

 掲載句は以前老人ホームを慰問した折りの句。

 

 

 

 

     男手の針目の歪むちやんちやんこ

 

 

 

 

朴落葉

「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」  磯田 道史著

 今売れっ子の歴史学者の著書である。表紙に「大反響 12万部突破」とある。新聞の読書欄でもベストセラー本として紹介されていたので、予約を待って借りた。読後感を一言で言えば「ガッカリ」。磯田さんの本は「武士の家計簿」にしろ「天災から日本史を見直す」にしろ資料を駆使してかなり面白かったのだが、それらとは違ってこれは司馬さん本の読書感想文のようなものだ。読書感想文というのはちょっと失礼だが、司馬さんの作品から何を学び何を今にいかしていくのか読み取ろうというのがこの本の趣旨。信長や大村益次郎坂本龍馬秋山真之らにみられる合理的精神が時代の変革期には非常に有効に働いて「この国のかたち」を創ってきたが、合理性とは対局的な形式主義・前例主義・神秘主義が、この国に破滅をもたらしたというのが大筋の内容だ。歴史を大づかみに整理してもらったという気持ちは残るが、あまり爽快感はない。司馬さんが愛した人物のように、どんな時でも周りに流されない「自己の確立」せねばといわれても、そのとおりですがと肯うだけで熱い気持ちが湧いてこないのはこちらの老化のせいでしょうか。

 

 「師走」の始まり。年賀状の欠礼状が届きだした。夫は今年は葉書がだいぶん余りそうだと言う。

まだ落葉しきっていなかった木蓮が散りだした。この木の葉は大きいので大変だ。今日も二人で大袋に何倍も拾った。

 

 

 

 

     掃くといふよりは拾ひて朴落葉

 

 

 

 

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)