青嵐

本の始末

 書棚の本の整理をし始めたことは、前にも書いた。七段ある棚の上段まで、脚立に乗っかって何十年ぶりかに手を付けた。俳句と歴史と宗教と郷土史関係は残し、残りは始末しようとダンボール箱に詰めた結果が、ダンボール箱に五つ、大きな紙袋に五つだ。文学全集などは、今やどこも引き取り手がないというので七十数巻という「現代文学体系」などは手付かず、思い切った割には片付け感に乏しい。それでもやっとここまで片付けて、さて、これらの本をどうするか。

 昔と違って古本屋さんが少なくなってしまった今、唯一、名を知る古本屋さんに買い取りのお願いの電話をしてみる。出したい本の内容を聞かれた。文芸書の文庫本と単行本、新書本が主だと答える。作家の名前を聞かれる。

向田邦子井上ひさし司馬遼太郎丸谷才一高橋和巳・・」なにしろ私が愛読した本である。今の作家は皆無で、物故者ばかりだ。

「60年代の作家ですか。その辺は今はだぶついているのです。」

 断られてしまった。

 Tは、もうただ同然でもブックオフに持っていくしかしかたがないという。ブックオフでももう一度棚に並べば、まだましかもしれない。思い入れがあっても結局そんなものなのだ。Tは死ぬまでほっとけばいい、誰かがブルドーザーで片付けるさと言うけれど、私はできるだけ自分の始末はしたいのだ。

 何年か前の喪服のドレスを作り変えた。袖とロールカラーの襟を外し、丈をチュニック丈にした。ベストとして着れないかとの魂胆。衣類も随分始末をしたがまだまだだ。

 

      書き込みにつたない若さ青嵐

 

溝浚へ

『猫屋台日乗』 ハルノ 宵子著

 相変わらず威勢のいい方である。コロナ騒動の最中で、お上の愚策にお怒り心頭である。規制の間隙をぬって買い物帰りの生ビールを楽しんでおられるのはさすがだが、我々だって三年間逼塞していたわけではなかったので、ハルノさんと同じようなものだ。

 「家庭の味」の件が良かった。偉大な思想家の吉本さんにして十年以上も炊事担当だったというのである。イチゴの天ぷらから、「衣揚げ」、(これは「小麦粉と青ねぎを粘り気が出るまで練り上げて揚げる」とある。何という揚げ物でしょうか!)伝説の衝撃的三色弁当。それは、3列に仕切った「1列目はびっしりと塩ゆで赤えんどう。2列目はオールパセリ。3列目はその赤えんどうを指で埋め込んだご飯」らしい。こういう弁当を持たされて、これを級友の間で笑いとばして食べたハルノさんもスゴイが、吉本さんも大変だったのだなあと笑ってしまう。

 「生が好き」は勉強になった。生ビールを出すサーバーシステムが案外不潔だというのは初めて知ったが、あまり外で飲むこともない身にはどうでもいいことかもしれない。いやいや旅先などで飲む時はちょっと気にしないと。気にしたってどうしようもないでしょうとはTの意見だけど・・・

 今回は前二作と比べると料理の話題が多かった。吉本さんに「プロの料理人なみ」といわしめたハルノさんだけにさすがである。また、その吉本さんだが、味の素とソースの信奉者だったらしい。Tに言わせれば吉本さん世代には文明の味だったんじゃないかと。ソース・マヨネーズ・ケチャップ、これらは確かに文明の味でしたねえ。

 

 

          

     取り仕切るうるさ方ゐて溝浚え

 

 

 本日は町内の「溝浚え」。下水道が普及した今では必要がないようにも思うが、これは消火栓と消火ホースの使い方の訓練も兼ねているらしい。そう言えば何年か前に近所で火が出た時も、消防車の来る前にみんなで消火したことがあったから、大事な行事なんだ。連れ合いの話では、水の流す方向をめぐって一触即発の場面があったらしい。町内も旧知ばかりではなくなって難しいことも出てきた。

 

 おばあちゃん(母)のバラ

 もう半世紀以上も咲き続けているバラ。何の手入れもしてない。背丈もかわらない。母が植えたことだけが伝説のように残っている。

風薫る

企画展「岐阜の古墳」を見て「野古墳群」とバラ公園へ

 雨が去り爽やかな五月晴れ。やや風があるが暑くも寒くもなし。世の連休はすんだし、湿った畑では作業もできぬからと、またまたお婆の提案で古墳巡り。

 まずは岐阜市歴史博物館での企画展「ここまでわかった!岐阜の古墳」へ。3C末から8Cまでの美濃地方の古墳の出土品約200点以上の展示である。といっても古墳からの出土物なので土器やら埴輪、錆びた太刀やら少しの鏡、目を引いたものでは勾玉やら管玉・耳輪など。

 平日なのでお客さんはほんの少しだけ。ボランティアらしき監視員の人が話しかけてこられ、少しだけ古墳談議になる。この後、大野町の「野古墳群」に行こうと思うと言うと、資料館があるので寄って行くといいと教えてくださる。

 車で30分。お勧めどおり、まず令和3年にできたという大野町の埋蔵文化財センター「大野あけぼのミュージアム」に行く。ここも係員の人以外お客さんはなし。野古墳群から出土した鍍金獣帯鏡(五島美術館蔵)のレプリカや円筒埴輪・土器などをみる。

モタレ古墳

不動塚古墳

登越古墳

南屋敷西古墳

南出口古墳

 古墳地図をもらい、麦畑や柿畑の中に点在する古墳を巡る。昨日書いた美濃国造(本巣国造)に係る5Cから6Cの古墳群である。かつては28基以上があったというが、今は1号から6号までは名前があるが、円墳方墳はよくわからない。大きいのは草刈りもされていて形状がよくわかる。

 

 昼食を「コメダ揖斐大野店」で。

 帰りに「大野バラ公園」へ。ちょうどバラの季節で花盛り。お客さんも多い。バラ苗もたくさん売られているが、うちはいつもどうもうまく育たない。それでも連れ合いは欲しそうで、「クイーン・エリザベス」という苗を手にいれる。上品なピンク色の花だ。

 バラ公園の近くに野古墳群に先立つ3Cの前方後方墳があるというので寄る。木が茂っていて忠魂碑などが立てられて形状はよくわからない。

上磯古墳群(亀山古墳・前方後円墳

 西濃をぐるりと廻った古墳探訪はここまで。道の駅「パレットピアおおの」でパンと野菜、旬の揖斐茶の新茶を買って帰宅。

 

 

         古墳上立てばひときは風薫る

 

 

      

夏燕

古墳を造ったのはどんな人たち?

 長年手付かずだった本棚を整理しようと思い立つ。二間の壁面いっぱいの本棚の半分が私用である。高い所は後回しにして、取り敢えず下部分の半分に手を付けたのだが、処分というのは難しい。歴史と俳句、宗教と古典は残したら半分しか片付けられなかった。

 久しぶりに手にしてこんな本もあったかと読みふけったのが写真の本。このところ思い出したように関心がある郷土の古墳の話である。

 市の講演やら書物で6C以降の当市の古墳の被葬者集団は概ね検討がついたが、問題は5C前半に造られた近くの「琴塚古墳」の被葬者集団である。うちから1キロ以内に県下第3位の琴塚古墳や、やや小さい柄山古墳のあることはすでに書いたが、文献資料によれば、かつてはさらに同規模の南塚古墳や土山古墳もあったという。5C頃、この大規模な墳墓群を築いたのはどういう集団だったのか、知りたいのはこの部分だ。

 古い書物(記や紀など)によれば、美濃の古代豪族として名前が出てくるのは本巣国造(三野国造・美濃国造・三野前国造)と牟義都(むげつ)国造、三野後国造、額田国造があるが、記と紀にある本巣国造はその中心地が現在の本巣市にあり、その地に「野古墳群」という大規模な古墳集積地をもっている。では牟義都国造はどうか。彼らは長良川以北、かつての武儀郡が中心地らしく、長良川以南のこの地とは距離がある。額田国造は滋賀に本拠地を求めるものが多く、美濃国の国造とするには疑問だといわれ、残ったのは「三野後国造(みののみちのしり)」だけだ。

 写真の本『古代の美濃』で、野村先生はこの「三野後国造」の本拠地を岐阜市各務原台地西端として物部氏に連なる豪族ではなかったかとされていた。さあ、これで問題ははっきりしたかというと、さにあらず。もう一方の本では「三野後国造」の表記は、9Cにできた『国造本紀』にのみ記載され、8Cに力を誇った物部系による創作ではないかという記述である。

 「琴塚古墳」は今も二重周濠をもつ立派な墳丘墓だが、この古墳を築いたのはどんな人たちだったのか。古墳の規模を見ると、この地に大きな力をもった勢力がいたことはまちがいない。物部系なのか牟義都国造の関係なのか、最近の研究はどうなのか、疑問はまだまだ尽きない。

 話は跳ぶが、先日購入した市の歴史本『各務原市の歴史』を読んでいたら、今住んでいる土地には旧石器時代の遺跡も縄文時代の遺跡も弥生時代の遺跡もあることがわかった。はるか太古よりよほど住みよいところだったと思って、嬉しくなったことだ。

 

 

        雲厚し地を擦るばかり夏燕 

 

 

 

 

 

春尽く

傘寿の賀

 家族揃って、連れ合いの傘寿のお祝いをした。連休中で若い人はそれぞれの予定があったかもしれないが、爺のお祝いに都合を合わせてくれた。ホールケーキに「80」のローソクをたてて「ハッピーバーズデイ」の合唱。娘夫婦からは大好きな銘柄の吟醸酒のプレゼント。私からは来し方80年の写真を纏めたミニアルバム。

 はるばると歳を重ねてきたものだとつくづく思う。連れ合いは目医者にこそ通っているが、服薬はひとつもない。健康であるのが何よりもありがたい。できればまずは8年後までお互いに元気でありたいものだ。

  当方の古墳熱が感染したのか、夕食の用意をしている間、みんなはTの案内で近くの古墳散歩に出かけた。これが面白かったらしくそれもいい思い出になったようだ。

 

 

       傘寿の賀集ひて春も尽きにけり

 

 

春たけなわのうちの庭

 

 いっしょにもらった母の日のプレゼント。ネコちゃんのタオル地エプロン。又ネコちゃんグッズが増えました。

花神輿

 六年ぶりの神輿とお客様

 昨日はこの地域の郷社の春祭だった。三年ごとに交代で神輿を出す決まりがあるのだが、前回(三年前)はコロナの真っ最中で、当然ながら神輿は中止。六年ぶりである。六年前は大人神輿も出たのだが、今回は子供神輿だけ。よほどの肝煎がないと面倒なことは縮小となる。

 今日の新聞投書欄に自治会加入者の減少を嘆く投書があった。愛知県の人だったが加入者が50%を切ったとあった。うちの地域も新しい住宅が大幅に増えて、昔ながらの地縁血縁集団ではなくなり、自治会に入っているメリットを感じないという人が出てきた。今年から加入非加入にかかわらず持ち家のある人は自治会費相当を集めることになったが、それで脱会が減るかどうかはわからない。

 面倒なことには関わりたくないというのもわからないではないが、みんで飾り付けた花神輿を釣る子どもたちは楽しそうであった。

 

 

          信号で足踏みとなり花神輿

 

 

 

 夕方連れ合いのお友達の訪問。鮎の塩焼きを持参してくださる。鮎釣りの名人で、去年の落鮎が大漁だったからとのこと。もうすぐ今年の解禁だ。昔と比べると長良川の鮎の遡上は減ってきて、放流する鮎で何とかなっているものの、放流鮎は縄張り意識も低く、とも釣りへの反応も鈍いと言われた。また最近は海との往復をしない怠け者も出てきて、鮎の世界もまた変わってきているらしい。

四月尽

街道をゆく22 南蛮のみち1』 司馬 遼太郎著

 司馬さんのこのシリーズは、いつも知的な刺激を与えてくれる。国内の街道行脚が基本姿勢だったにもかかわらず西洋に目が向かったのは、この国の窓が初めてヨーロッパへ開かれたのが「南蛮」だったからだと、司馬さんは書いておられた。すなわち16Cの鉄砲とキリスト教の伝来である。

 1549年(天正18年)日本へキリスト教を伝えたのは、フランシスコ・ザビエル。彼の日本滞在はわずか3年弱だったが、多くの信者を生んだ。

 司馬さんはこの姿を追って、まずはフランスのパリ、カルチェラタンで、若き日のザビエルに思いを寄せた。哲学青年だった彼が、同輩のロヨラの熱い誘いにのって宗教的回心を体験、イエズス会の発足を誓ったモンマルトルの丘へも行く。

 そのパリを経て、司馬さんの旅はザビエル出身地のバスク地方へ。バスクピレネー山脈を挟んでフランスとスペインにまたがるが、ザビエルはスペイン側のナバラ国の生まれだ。父親はナバラ国の宰相で城持ちであったが、ザビエルの幼い頃に亡くなった。かの地には今もザビエル城があり、一行は城管理の修道士に歓待された。

 が、司馬さんの興味はザビエルはもちろんだが、「バスク」という独自な文化にも向けられていく。 「バスク地方」、「バスク人」「バスク語」というのは、特異な地域であり、民族であり、言語であるらしい。太古からかの地に住み、独自の言語を持ち、独自の文化を築いてきた人々。大まかにスペインの一部と考えていたのは、間違いであった。フランコ政権での抑圧を経て、現在はスペイン内では地方自治権が与えられ、バスク自治州となっているらしい。推定人口はフランス側も含めると300万人で南米大陸への移住者も10万人ほどあるという。司馬さんはバスク語の普及に力を尽くすバスク人バスクの大統領に会うが、残念ながら彼らの思うように歴史は進んではいないようだ。バスク語を話せる人は今は10万人ほど。この本の当時は60万人と言われていたから普及どころか減少が甚だしい。

 ふと日本語の中の「アイヌ語」はどうかと思った。固有の文化や言語があるのはバスクと同じだが、如何せん絶対数が少なすぎる。調べると今は13118人(平成29年)、言語を使いこなせる人は更に少ないのではないか。

 言語は文化であり、言語が廃れれば文化も消えていく。「生産と流通、さらに政治の変貌という歴史そのものがこの狭域世界の言語を亡ぼした」と司馬さんは言う。グローバル化して、今やどこもが広域語を取得することこそが第一。この国でも小学生からの英語教育に熱心で、方言は廃れ、日本語教育は脇におかれつつある。

  「ザビエルの手」という信仰対象があるのを知った。仏教の「仏舎利」のようなものかもしれぬが、もっと生々しく実際にミイラ化した手のようだ。それだけでなく、ミイラ化したザビエルの遺骸も何年かに一度は公開されるという。

 

 

 

        はらからの健やかにして四月尽

 

 

  先日の訪問をかえりみて。大型連休が始まったが、年中日曜日のトシヨリには関係がない。ただこの休みの間に連れ合いの「傘寿のお祝い」を娘一家を含めて企画している。