秋の雨

 季節が半月ほどずれているような気がする。例年なら「天高し」の頃だと思うのに連日の雨。小寒いのも相まって気持ちが晴れない。それでも昨日は降り込められたのを逆手に終日縫い物。ひさしぶりに夢中になった。なんて言うことはない「袋物づくり」。材料は昔々H殿が買ってくれたエクセーヌ(人工皮革スエード)のコート。あまり着る出番もなく長い間洋タンスの肥やしになっていたもの。そのまま捨てるにはしのびず袋物に作り直した。昨年に二つ作り、昨日もう一つ。全部で三つの袋物になった。一つ目はコートのブレードを活かしてちょっとした外出にも使えるように、あとの二つは斜めがけの買い物バッグである。ゴミにしなかったこととまずまずの出来栄えに自己満足である。

 

 

 

 

     ひもすがら灯りともして秋の雨

 

 

 

 

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石叩

 今朝の新聞である。「俳句不掲載 市に賠償命令」との記事。なんでも9条デモが題材になった俳句が「公民館だより」への掲載を拒否されたのが発端らしい。拒否の理由が「公民館が公平中立の立場であるべき観点から好ましくない」というのだが、問題の俳句がどれほど政治的かといえば何と言うことはないのである。「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という句で、政治的主張というよりは単なる情景描写。当方もよく似た句を詠んだ記憶がある。それなのにこんなことにまで表現規制がされるのをみると驚きを感じざるを得ない。全く憲法で保証された「表現の自由」はなんであるのか。コメントの憲法学者によればこの判決へは「人的利益の侵害を認めた点では評価している」が「『表現の自由』には正面から向き合っていない」と批判的だ。当方などは、あれこれ言われれば、黙りこくって萎縮してしまうのが普通の人間だと思うから、不当な扱いに異議申し立てをした女性の勇気にただただ関心する。「物言えば唇寒し」の日本社会について先に読んだ本でノーマさんが詳しく書いていたが、ますます重苦しさが増してきたような気がする。

 

 

 

 

     石叩ここより湧いて柿田川

 

 

 

 

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              セグロセキレイ(石叩き)

村芝居

「新釈 遠野物語」 井上ひさし

 その前読んだ「東北ルネッサンス」の中で赤坂さんがこの本に触れて、柳田さんの「遠野物語」とくらべて「語りということを非常に意識されていた」などと書いておられたので、てっきり東北弁の語り本と勘違いしていた。まあ東北弁ではないが、もちろん「語り」である。山腹の洞穴に暮らす犬伏老人が、療養所で働く私の昼休みを使って聞かせてくれた話の数々。山男やら河童、狐憑き、鰻、馬いずれも人間に姿を変えたり、人間と交わったり奇っ怪な話ばかり。最後には思わぬ結末も用意されている。

 井上さん自身、先の本で「遠野物語」には「諧謔味」がないのが不満で、「新釈遠野物語」には諧謔味を加えてみたとおっしゃている。諧謔性+エロスも加わって、これは井上さん創作の大人の東北炉話ともいうものかしらん。面白く読ませていただきました。

 

 

 

 

     白塗りのお軽の毛脛村芝居

 

 

 

 

新釈 遠野物語 (新潮文庫)

新釈 遠野物語 (新潮文庫)

 

 

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 ブロッコリーの苗の今朝のお化粧。小さなイヤリングをいっぱい付けていました。

 

 

秋澄む

 県の博物館で開催中の特別展「壬申の乱美濃国飛騨国の誕生に迫る」に出かける。壬申の乱大海人皇子側の兵士供給を担ったのは美濃であった。つまり、我が地の古代豪族村国氏や隣の武義郡の豪族牟儀氏(むげつし)が活躍をしたのであるが、この牟儀氏の名前の記された木簡(国宝)の展示が今日までということもあり急いで出かけたわけだ。この木簡のほか、文弥磨呂(この人も大海人皇子側で活躍)の墓誌(国宝)などもあったが大半は美濃や飛騨の古墳や廃寺跡からの出土品で、土器や瓦が多かった。木簡には今に生きる地名が記され、地名というのがいかに歴史的遺産であるか、改めて思う。複製ではあるが正倉院に残る日本最古の「大宝二年御野国賀茂郡半布里」戸籍も展示されており、興味深い。「戸主阿波年六十二」とあり、意外と長生きだねと感心した次第。半布里(はにゅう)は今の羽生らしくやはり地名は生きているようだ。

 博物館周辺はそろそろ木々も色づき始め、木の実も転がって秋たけなわ。公園で遊ぶ家族連れが目立った。博物館も恐竜の説明に聞き入っている親子連れのほうが多かったかしらん。

 

 帰ったら夕方娘一家来訪。「ちょっと岐阜城に来た」とか言って寄ってくれた。Tの言葉だがいつも幸せのおすそ分けありがとう。

 

 

 

 

     秋澄むやボール遊びの声高し

 

 

 

 

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金木犀

五重塔」 幸田露伴

 いやはや凄い話だった。こういう文体を「求心的文体」というらしいのだが、畳み掛けるような調子に息もつかず一気に読んだ。ことに完成なった塔を揺さぶる大嵐のこれでもかこれでもかという描写、吹きすさぶ暴風雨が目に見え耳に聞こえるごときだった。こういう先人の凄い文章を読むと、当方のような薄っぺらな知識ではただただ驚くしかない。文さんの文章を通しておぼろげながら知っていた露伴先生の姿がますます偉大になったことだ。

 

 金木犀の香りが漂ってくるようになった。まず、香りに気づきそれから元の木を探すというのは金木犀ぐらいだ。

 

 

 

 

     塵界の音遠くして金木犀

 

 

 

 

 

五重塔

五重塔

「にんげん住所録」 高峰 秀子著

  二十四節気の「寒露」。露がしみじみと冷たく感じられる頃である。今日は晴れて気温も上がるとの予報だが、このところの朝晩の冷え込みには、一段と秋の深まりを感じさせる。

 図書館で何気なく借りてきた一冊。彼女とは世代的に少しズレが有り女優さんという憧れはない。名エッセストだという評判は聞いていたので手にした。確かに小気味のいい啖呵を聞くような文章であった。一世を風靡した女優さんだけにわれら庶民にはほど遠いという話題も多いが、そんな僻みを引いても楽しめた。随分の活字中毒らしく老齢になってからは(執筆時は七十歳代前半か)終日ベットに転がってあらゆる活字を追っているとあった。ソファーに転がって本ばかり読んでいるこちらも似たようなもので、何となく親近感も湧く。露伴の「五重塔」をいたく褒めておられたので読むことに。家にあった昔の岩波文庫はあまりに小さい活字なのでキンドルで検索をしたら無料であった。これで大活字で読め、有り難いことです。

 ちょっとずつ元気もでてきて昨日は編み物も。やり過ぎてやや指が痛くなり、アブナイアブナイ。トシヨリには「過ぎる」のはいけません。

 

 

 

 

     本殿の裏はひときわ露けしや

 

 

 

 

にんげん住所録

にんげん住所録

「東北ルネサンス」 赤坂 憲雄著

 まだ東北にこだわっている。Tの書棚にあった赤坂さんの対談集。東北にこだわった七つの対話記録、どの対話も熱い東北讃歌である。かの地においては三内丸山遺跡の発掘がもたらした影響は多きかったようだ。中央以前に優れた縄文文化が長く続いたという発見が東北人の誇りに火をつけたというのである。かっては蝦夷などとの繋がりを否定していた人々が逆に蝦夷との繋がりに誇りを感じ始めたのではないかと小説家の高橋克彦さんは言う。高橋克彦さんは「炎立つ」で蝦夷の活躍を描いた人である。

  さて、東北古代史研究の第一人者といわれる高橋富雄さんは日本というのはヤマトだけではないと語る。むしろ初めは「日高見国」と言われた関東以北のことを指して中国では日本と言ったのであって、「大倭」と「日高見国」が一緒になることで「日本」になった。「日本を日本たらしめたのは北あるいは東日本というものが、日本の半分を代表」してのことで、東日本というのは決して辺境の地ではないと言うのだ。

 民俗学者谷川健一さんは東北に数多く残るアイヌ地名に触れる。この話を受けて赤坂さんは「アイヌ語地名の問題は日本を相対化する武器である、日本は単一の民族によってつくられた国家だといった歴史を壊す、その大きな手がかり」だとする。ここにも辺境からもう一度歴史を見なおそうとする姿勢が伺われる。

 あと、中沢新一さん、五木寛之さん、井上ひさしさん、山折哲雄さんとの対話があるが夕飯の準備もありここまで。なかなか面白い内容であった。ことに高橋富雄さんの考えは初めて聞く内容でもあり関心をもった。

 

 

 

 

 

     ぽつかりと亀浮かびくる萩の昼