志段味古墳群を見に行く

 名古屋市守山区上志段味というエリアには古墳時代を通じて古墳が造られつづけ、66基もある大規模な古墳群となっている。庄内川河岸段丘上で、この川を利用して勢力を伸ばしたこの地の首長やその配下の人々の墳墓である。

 最大なのは「白鳥塚古墳」。墳長115メートルで愛知県下第三位の大型前方後円墳。最も古く4C前半の築成。大半が樹木に覆われているが、後円部に登れる。後円部頂部に石英が敷かれていたが、かっては墳丘全体が石英で覆われていたらしい。「白鳥塚」の呼び名もそこからきたと思われる。

 綺麗に整備されているのは「志段味大塚古墳」5C後半の帆立貝式古墳。葺石を貼り付け、円筒埴輪が復元されている。ここも墳丘に登ることができ、頂部に二つの埋葬部の印がある。

 周辺に小型の古墳がたくさんあり、芝の広場になっている。

 最後に寄ったのは「東谷山白鳥古墳」。時代が下って、6C末から7C初めの円墳。横穴式石室である。名古屋で唯一、完全な形の横穴式石室だとある。覗くと明かりが灯り説明も聞ける。

 東谷山の山麓にはまだあるようだが、おもなものは以上。

 発掘品を収めた「しだみ古墳ミュージアム」がある。最初に寄り、パンフレットや地図をもらった。古墳ばかり行きたがる気が知れんと言いつつ連れていってくれた家族に感謝。もっとも最近は連れ合いもその気が伝染って、群馬の古墳も見に行こうかと言い出した。

 

 

        鶯の初音聴き留む墳丘墓

 

春落暉

映画『パーフェクトディズ』を観る 

 言わずと知れたヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演の映画である。U-NXTで配信されるのが待ちきれず大雨の中映画館に出かけた。家族揃っての鑑賞で、初めての体験だ。

 さて、映画である。文句なくいい映画で、今も劇中の音楽を聞きながら、余韻に浸っている。

 毎日早朝に目覚め、日の出とともにトイレ掃除の仕事に出かける。仕事はきっちりと手を抜かず、木漏れ日の写真にこだわり、小さな植物を育てる。テレビやネットの情報に振り回されることもなく、労働の後は少し飲み、就寝前には静かに読書をする。「丈夫な体を持ち 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている。」平山とはそんな人物。

 全くの推測でしかないが、ヴィム・ヴェンダーズは「禅」にもかなり造詣が深いのではないか。思い浮かんだのは「日日是好日」という言葉。玄侑さんは「日日是好日」について、昨日と今日は「基本的に関係ない。昨日と関係なく新しい一日に出逢ったのだから、それが雨であろうと嵐であろうとみな新鮮で佳い日なのである」と説かれる。一日一日がパーフェクトデイ。明日とか昨日にとらわれず、「今」することを楽しめとも。そう言えば「いつかはいつか 今は今」という平山の言葉もあった。

 挿入曲は、音楽音痴の私にもどれも良かった。最後、平山が運転をしながら聞く曲「Feeling Good」は平山の気持ちを代弁するものであり、彼の法悦とも見える喜びに満ちた笑顔や潤んだ瞳とともに、実に感動的であった。

 なかなか渋いと思ったことが一点、濡らした新聞紙をちぎって撒き、埃を抑えながら掃除をする場面。昔、やったなあと感慨深かったが、あれはいつ頃までのことだったろうか。脚本はヴィム・ヴェンダースと高橋卓馬とあったが、あれは高橋氏の体験だろうか。

 平山の暮らしは、情報の波に振り回され、ものにまみれた私たちの暮らしと対極にある暮らしだ。あまりに多くを望みすぎて、日々の暮らしを楽しむことを忘れているのかもしれない私たち。平山はそんなことを教えてくれた気がする。

 

 

       雨上がり野のさえざえと春落暉

 

 映画館を出たらさすがの大雨が上がっていた。畑に水が溜まるほどの降りだったようだ。

 

ハナニラ

春の夢

『隆明だもの』 ハルノ 宵子著

 久しぶり自前で購入した本。ハルノさんの本の面白さは『猫だましい』ですでに納得済みだ。Tと連れ合いと三人で回し読みするつもり。

 昨日の朝日の読書欄の平川克美氏の書評に立派なことは書かれいるので、ここではどうでもよい感想だけ触れたいと思う。

 私たちの学生時代は、吉本さんは今の「推し」のような存在で、「言語にとって美とはなにか」とか「共同幻想論」とか、随分流行っていた。連れ合いなんかも読んでいたようだが、私はちっともわからなかった。後年、Tが吉本さんを「推し」にして、うちに吉本本が溢れてからはわかりやすいものを多少読んだくらいである。

 そんなこんなで吉本さんと言えば、武骨で硬派な知の権化というイメージから、ネコ好きでおだやかな庶民的知識人へと変わってきたのであるが・・・。そして、この本である。ここには老いて手がかかるようになった吉本さんが、いっぱい書かれている。人は誰でも老いていく。当事者には深刻で介護者にとっても大変なことなのだが、端から見れば、なんと笑えてしまうのだろう。ハルノさんの文章を通して、いっぱい笑った。そして吉本さんでもこうだったのだと安堵もした。

 この本の中には、吉本さんは脚の出る講演もいっぱい引き受けたとあったが、多分昔連れ合いたちが頼んだ大学祭での講演もそのたぐいだったにちがいない。田舎の学生の依頼を引き受けるか迷っておられたら、端の奥様が「せっかくだから引き受けてあげたら」と助け船を出してくださったらしい。「お母ちゃんは外には優しいがうちにはきびしいなあ」とおっしゃっていたらしいが、その一例だったかもそれないと思うことだ。

没後すでに12年。命日は3月16日とある。

 

 

       たまさかに五十六年春の夢

 

 

 本日、結婚記念日。いつの間にやら56年経ってしまった。「花束」なんか一回ももらったことがないと、この前愚痴ってやった。まあ健康だけが「花束」と納得するしかないか。

 

ネモフィラ

雪解

『むすんでひらいて』 玄侑 宗久著

 Tから回してもらったものだが、なかなか難しくて半分もわからなかった。

玄侑さんに、哲学が専門という大竹さんがいろいろたずねるという形式で、書かれた本である。「いのち」とは何か、「死」とはどういうことなのかと、おぼろげながら自分なりの理解が出来た程度で、これでいいのかわからない。わかったことを書けばいいとTに言われて、わかったところまでを記録しておこうと思う。

 玄侑さんは戒名の頭に「新帰元」と書かれるという。「元気(生命エネルギーの本体)に元気を与えられて生きてきた器の寿命がつきたので元気に帰っていく」という意味。つまり「死」とは「ある種の生命エネルギーがエネルギーの本体に還るようなイメージ」らしい。

 いのち(存在)の最小単位は量子力学的にいえば「粒子」であり「波」あり、「死」は粒子から波への移り際かもしれない。いずれにしろ「死」で微塵の粒子になった存在は宇宙の渾沌としたエネルギーに還っていくようだ。この生命を産み出す渾沌としたエネルギーを東洋では「気」と名付けた。「気」は「目に見えないが確実に命あるものを生かしめ繋いでいる」もの。この「気」というものは今は学問の対象だという。

 肉体の死によってすべてはなくなるのか、逆に永遠不滅の存在があるのか、お釈迦様(ブッタ)はどちらでもないと説いて、それは瞑想を深めて体験するしかないと言われたらしい。玄侑をさんもほんとうの理解にはヨーガや坐禅による深い禅定から生まれた体験的認識しかないと言われる。

 ならばわれら凡人には救いはないのか。そこに出てきたのが物語だという。念仏を唱えることで救われるという阿弥陀様の物語は、浄土真宗の信徒にとっては安らかな心と死をむかえるための「物語」である。

 あまりにも中途半端な理解で情けないが、今はこんな程度である。

 

 

       伊吹嶺の雪は解けたり夜半の雨

 

 

  いつの間にか伊吹山の雪も谷筋だけになっている。明日もまだ寒いようだが、春は着実。わが家の紅梅もほぼ満開。

 

春日和

『砂のように眠る』  関川 夏央著

 関川夏央氏が好きである。岡武さんのブログで知って、図書館の閉架から出してもらった。副題に「むかし『戦後』という時代があった」とある。戦後・・・1950年代後半から70年代始めまでの時代風景の概観である。

 小説と評論の抱き合わせで、構成としてはめずらしい。小説は著者自身を投影したような、ややペシミスティックな人物の一人称がたりで、評論の対象となるのは次のものだ。

 『山びこ学校』・石坂洋次郎作品・『にあんちゃん』・小田実『何でも見てやろう』高野悦子二十歳の原点田中角栄私の履歴書

 小説も評論対象作品もまずは懐かしかった。

 小説では、関川氏とは四歳違いだから、厳密にいえば同じ時代ではないが、ほぼ同時代の空気感だ。都会に出てからの話より田舎の中学高校時代の話は、全くうべなうばかり。部室の隣の柔道部の練習場の匂い立つ臭さや、共産党シンパだと聞いていた若い英語教師のいけ好かない挑発的態度もありありと思い出した。

 評論では『二十歳の原点』である。存在は知っていたが、この本は読んだ覚えがない。高野悦子は四歳下で、この本が話題になった頃、青春を脱した当方は、既に子持ちであった。しかし高野が影響を受けたという奥浩平を大学時代に読んだ覚えはある。

 高野は何に悩んで自死を選んだのか。同年である関川氏は、寄り添った眼差しでこう書いている。

「いつの時代の学生たちでも、十九はたちの頃にはこんなことを思ってみたりするのだろう。自分が自分であることがうっとうしくなる。自分が死ぬまで自分でしかない、死ぬまで他人になれないかと思うとうんざりする。(しかし)、ときに投げやりな気分に陥りもするが、なにかの気晴らしによって危機を脱する。彼女の場合、めぐりあわせが悪かった。やたらに騒々しいばかりで内実をまったくともなわなかった時代そのものに、秤を不運の方に傾けるわずかばかりの悪意があった」と。

確かに生硬な言葉と気負った意識、「爪先立ったままでどれだけ歩けるかというコンテスト」ような時代だったかもしれない。あの頃何にあんなに気負っていたのか。それがあの時代のスタイルだったというのは、あまりにも軽々しいだろうか。

 

 

        棟上げを終へて車座春日和

 

 

 うちの辺りは新築ラッシュである。トシヨリはどんどん耕作をしなくなったし、市街化調整区域になったせいもある。たいていは今風の工場仕上げの家だが、時には棟上げの日本建築もある。

イオンモールも近いし、病院は多いし、災害も少ない気がする好地だ。

 連れ合いが頑張って柿の大木3本と木蓮の大木1本の剪定を終えた。八十にならんとする今年もやり終えたということで、まずまず祝着至極。ご苦労さまですと素直に労う。あの時代以来、半世紀を越えた同志だ。

 

二月尽

『生き物の死にざま はかない命の物語』 稲垣 栄洋著

 図書館で自然科学(4類)を借りたのは初めてではないか。以前読んだ『老年の読書』で気になった一冊。

 身近な生物(植物も含む)の一生を概観、彼らが「限られた命を懸命に生きる姿を描いた」本である。

 切ないのは牛である。子を産んでないメスは最高級の柔らかい肉質で重宝され、子供を産んだメスや乳用牛のメスも役に立たなくなればやはり肉になり、オスは生まれながらに肉用でどんな牛に生まれても最後は肉になる。この本にはないが毎日のようにお世話になっている豚だって同じ運命だ。

 動物だけじゃない。この二三日、ガリガリと引っこ抜いた草だって、声はださないが神経めいたもの(カルシウムイオンの電気信号)があると言っていた。(NHK番組 ヒューマニエンス)この本でも雑草といわれる一年草のしたたかな戦略、つまり短い命をリレーすることで種の存続を図っていることを紹介しているが、植物も又生き物である。

 仏教では草木悉皆成仏というらしいが、我ら人間はなんと不遜な生き物であろうか。

「いただきます」というのは「いのちをいただきます」ということだと思い返し、心して無駄なくいただきたいと思うことだ。

 

 

     誤作動を起こしてうるう二月尽

 

 

去年より十日もはやい開花。

このところ無防備で草引きをがんばっていたのだが、そのせいか「花粉症」のスイッチが入ってしまった。憂鬱な季節の始まりだ。

 

蕗味噌

冷たい雨の一日

 雨の日は落ち着いて厨仕事ができる。まあ年中暇人だからいつだってできるのだが…。マーマレードは最近6回目を作ったばかりなので、今日は冷凍をしておいたフィリングでアップルパイをおやつに。昨日笊いっぱいに蕗のとうが採れたので蕗味噌も煮る。蕗味噌を作るとこれが好きだった父のことを思い出す。

あと今日は山田太一さんのドラマ「今朝の秋」を観るつもりだったが、止めた。昔テレビで観て大泣きした記憶があり、躊躇したのだ。代わりにだらだらとネットで宿を調べて、時間を費やした。暖かくなったら出かけよう、今はそれが 目当てだ。

 

 

       遠慮しつつ父の催促蕗の味噌

 

 勤めと子育てでいつもバタバタしていた娘に、遠慮がちだったなあと思い出す。