鵙日和

陽射しのある昼なかはともかく朝はめっきり冷え込んできた。

図書館から予約をしておいたヘニング・マンケルを貸し出せるとメールが入ったので出かける。二冊予約をしておいたら同時に二冊が借りられることになりヘニング・マンケルばかり三冊も借りることになる。ヴァランダー警部シリーズの第二作目から第四作目までである。こんなに二週間で読めれるかしらんと思うのだがともかく借りてきた。図書館のある市民公園はぼちぼち木々が色づき始めた。

 午後はひざ掛けに包まりぬくぬくと読書。なんだかもう冬の気配だ。

 

 

 

 

     菜ものの芽出揃いにけり鵙日和

 

 

 

 

リガの犬たち (創元推理文庫)

リガの犬たち (創元推理文庫)

白い雌ライオン (創元推理文庫)

白い雌ライオン (創元推理文庫)

笑う男 (創元推理文庫)

笑う男 (創元推理文庫)

月夜

木山捷平  井伏鱒二 弥次郎兵衛 ななかまど』  木山 捷平著

 Tの本棚から抜き出してきた木山捷平短編集の二冊目である。十編が収められているがいずれも晩年の作品である。一番心に残ったのは「弁当」。一冊の追悼歌集が呼び覚ました若い頃の思い出である。追悼歌集の主は筆者(正介)の中学時代の国語の先生で、若山牧水と幼友達でも友人でもあった歌人平賀春郊氏である。歌集に付いた年譜によればが紆余曲折の末に国語教師になった人でその人生も志を遂げたというようなものではなかったらしい。収められたいくつかの歌を読みながら、正介は先生が試験の採点にはこだわらなかったことや他の教師に比して進歩的だったこと卒業のお礼に初めて自宅を訪問した時自分の歌をほめてくれたことなどを思い出す。

 死後七年たって・・・高校の教え子達の尽力で、やっとその処女歌集が貧弱な装幀で出たということには若干の感慨があった。その感慨というのは、正介自身をかたることになるであろうが、人間の一生というものは、案外さびしいものだといったような感慨であった。

 歌集を読んで正介は先生の未亡人にくやみ状を出す。先生の死去から八年がたっていたがそれでも書かずにはおられない気持ちにさせられたからに違いない。そして先生の奥さんからは大変うれしかったという返事が届いた。

 死後七年もたったにしろ貧弱な装幀だったにしろ教え子たちが歌集を出すのに力を尽くしたということだけで平賀氏の人柄が推し量られる。その点では決してさびしい一生というわけではないと私は思うのだが・・・没後評価の高まった木山氏もまた然りである。

 

 さて、「弁当」以外は筆者の庶民的で気取らないユーモラスな人柄を伺い知る作品が多い。「井伏鱒二」は敬愛する井伏と郷里が間近である嬉しさ誇らしさがにじみでたような作品であり、「太宰治」は若き日の創作に意欲的な太宰の風貌が感じられる作品であった。

 別冊『木山捷平 全詩集』から俳句をひとつ引用させていただいた。

 

 

 

 

    白河を汽車で越えゆく月夜かな   木山 捷平

 

 

 

 

井伏鱒二・弥次郎兵衛・ななかまど (講談社文芸文庫)

井伏鱒二・弥次郎兵衛・ななかまど (講談社文芸文庫)

 庭には柿の大木が三本もあるのだがもう古木のうえに手入れもあまりしてないから(一応剪定だけは毎年夫がしている)成らない。特に今年は外れ年で三本を合わせても数えるほどだ。その数少ないのに鴉が狙って毎日のようにくるから今日は脚立を出して色づきだしたのを採った。案の定、半分つついてあるのがいくつかある。まだ早いと思っても鴉は目ざとい。こちらよりよほど食べごろを熟知している。そう言えば畑の落花生も鴉がほじりだしたから掘り上げたら正解であった。鴉に教えてもらう。素人百姓はこんなものである。

 柿を買うなどという情けないことにはならずどうにか自家産で味わえたが、昔は縁側にずらりと並べたのを買い付けの人が来たという話を知るだけにちょっと寂しい。

 田舎でも落葉を嫌って庭の柿の木は切ってしまった家が多いが、まあ、真夏の日よけには効果的だと思っている。その代わりこれから当分の間毎日落葉掃きが大変だ。

 

 

 

 

     父の柿かつてはもつと甘かりし

 

 

 

 

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蜻蛉

『京都がなぜいちばんなのか』 島田 裕巳著

 宗教学者」による京都観光案内である。よく知られた京都の観光名所の変遷や謎について紹介している。いずれも一度成らずも訪れたことのある場所であり、そこにそういう歴史が秘められていたのかと、まあまあ面白く読んだ。

 書かれていた順に初めて知ったことなどをちょっとだけ紹介すると

 まず「伏見稲荷大社」だがあの有名な千本鳥居は明治以降のものらしい。千本鳥居より驚いたのはお塚という祭祀遺跡。稲荷山内に無数に築かれているらしいが、山にのぼったことのない身にはその存在は初耳であった。これも千本鳥居同様明治以降の信仰によるものらしいが庶民信仰の膨大なエネルギーを感じさせるものらしい。

 祇園祭で有名な八坂神社のご祭神がスサノオノミコトであるというのも初めて知った。祇園祭牛頭天王に真夏の疫病退散を祈る行事と思っていたが明治以降はどうやらそうではないらしい。明治期の神仏分離が大きく影響してご祭神が変更になり、牛頭天王スサノオノミコトであるということで納得するかたちになったらしいが変な話である。

 明治期の神仏分離は先の稲荷大社にしろ八坂神社にしろ神社仏閣には大きな影響を及ぼしたようで奈良の聖林寺の国宝十一面観音立像なども衰退した三輪寺(大三輪神社の神護寺)の床下に転がされていたと聞いたことがある。

 この本はあと清水寺金閣寺銀閣寺・平等院などにも触れているが、概ね歴史は変遷していくということだろうか。「そうだ、京都 行こう」と思うのだが最近のあまりの人の多さに躊躇してしまう。そんなことを言っていたらどこもいけないのだが以前この時期に出かけてバスはぎゅうぎゅう車は渋滞、昼食にすら苦労したことを思い出す。

 さてさてこの本以外にもTの本棚で見つけた『京都、オトナの修学旅行』も異色の観光案内で面白い。この二人(山下さんと赤瀬川さん)は金閣寺銀閣寺も建物に上がらしてもらっているのが羨ましい。もちろん一般人は外から眺めるだけだ。

 

 

 

 

     またひとつ蜻蛉のりこむ草津線

 

 

 

 

京都、オトナの修学旅行 (ちくま文庫)

京都、オトナの修学旅行 (ちくま文庫)

秋ともし

『殺人者の顔』 ヘニング・マンケル著 柳沢由実子訳

 四百ページを一気に二日間で読んだ。久しぶりのミステリーで、実に面白かった。ブログに時々コメントをお寄せくださるこはるさんのお薦めである。スエーデンの作家のミステリーでヴァランダー刑事シリーズの第一作目。テンポのいい書きっぷりで(おそらく翻訳がいいのに違いない)終始息をつかせない。背景に現代ヨーロッパの抱える移民問題があり、その点でも現代的リアリティがある。スエーデンですら今や移民問題はこれほどまでに深刻なのかと初めて知らされた。

 ヴァランダーは風采の上がらない中年の刑事である。妻に捨てられ娘に家出され認知症になりかかった父親を抱かえ、それでもなお執拗に事件に挑む。同情しつつも増え続ける移民に戸惑う生真面目な市民的感覚にも同感である。

 この秋、彼の活躍を追ってみようかなあと思う。が、読み出すと他のことが出来ないのが問題だ。

 

 

 

     事件まだ解決を見ず秋ともし

 

 

 

 

殺人者の顔 (創元推理文庫)

殺人者の顔 (創元推理文庫)

秋澄む

『あ・ぷろぽ』  山田 稔著

 「あ・ぷろぽ」とはフランス語で「ところで」といった意味らしい。副題で「それはさておき」とあるからそれも同じような意味か、ともかくフランス語は全くわからない。(これでも大学時代は第二外国語でとったのに)

 さてこの本だが「それはさておき」とあるとおり軽い話が多い。あとがきによれば雑誌や新聞掲載の小編をまとめたものらしい。自ら「回想談」が好きだといわれるとおり、この中のいくつかは昔の友人のことであったり旅の思い出だったりするのだが、いずれも小編であり深い思いは薄い。

 記憶に残ったひとつは茨木のり子さんの詩集「倚りかからず」についての一章。

 おそらく作者は外に向かって昂然と言い放ったのではなく、みずからに言い聞かせるように小声でつぶやいたのだろう。倚りかかるまい、と。

 しかしと、手厳しい。

 ただその気概をこうもまともに、こうもわかりやすくでなく、もっと屈折し言いよどむ、しなやかな言葉で表現してほしい。「いちばん大切なこと」も言い様次第で詩にもなれば道徳にもなる。

 さてさて、こういう読み方もあるのかと目を開かされた思い。確かに茨木さんのこの詩は言葉の強さで胸を打つもので詩趣というものを感じるというものではないかもしれない。が、それにしても『道徳にもなる」というのはちょっと意地悪な言い方にも聞こえる。

 

 

 編み物の前身頃が編み上がって、さて三月から放りっぱなしの後身頃の続きをと、取り出してみて落胆した。編み始めに近いところでまたまた模様を間違えているのだ。よくよくぼんやりしている。これで後身頃も最初から編み直しである。まあ暇つぶしと思って自ら慰めることに。

 

 

 

 

     秋澄むや水琴窟に耳寄せて

 

 

 

 

あ・ぷろぽ―それはさておき

あ・ぷろぽ―それはさておき

秋桜

出石城崎』  木山 捷平著

 山田稔さんの『あ・ぷろぽ』を読んでいたら名作再見なる話があって、結城信一の『黒い鳩』を取り上げておられた。その中で木山さんの『出石』についても触れられていて、ああこれはどこかにあったはずだとTの本棚から見つけてきての再読だ。

 どうやら『出石城崎』は『出石』の改訂版らしく初版の『出石』とどう違うのかはわからない。筆者とおぼしき青年が青春を感傷的に振り返る話である。

 出石は山陰本線の豊岡からいくらか入った古びた町である。今でこそそういう古色がもてはやされて観光客が押し寄せる町となったが青年が代用教員としで赴任した当時は若者にとっては退屈な町でしかなかった。一年間の教員時代、同じ代用教員というよしみで同僚の女性と親しい言葉をかわすようにいたるのだが、特別に慕情めいた気持ちがあったわけではない。

 進学で上京して十年という月日が流れて都会の喧騒に身を置けば、出石の静かな風景や因循ながら人懐かしい町の人が思い出された。しかし、帰省の折にかの地を再訪した筆者に町はすっかり見知らぬ顔にかわっていた。

 逃げるようにして降り立った城崎から「ひょっとしたらー」という思いでかっての勤務校に電話を入れた筆者。翌日懐かしい同僚女性が訪ねてくれた。今は人妻の彼女だが、昔の気軽さそのままで昔ばなしに花を咲かせて彼女はまた去っていった。

 ・・・僕は一人になった自分をはっきりと意識した。「竹野というのは彼女のどんな親類なのだろう」そんな疑問が湧いて来た。「彼女の夫の里なのだろうか」自問自答しながら歩いていると、何だか彼女は僕の青春をさらって竹野の方へ逃げて行くように思われ、一脈のさびしさがじりじりと胸に押し寄せて来た。

 この後、筆者は温泉の外湯の一番上等の「特等湯」に浸る決心をする。貸し切り夫婦湯ともおぼしき湯にひとり身を委ねて、そして、青春の甘美さにわかれを告げるのである。

 この話は再読だがそれを忘れてしみじみと読んだ。

   だれにとっても若かった日の懐かしい場所はそこでの思い出とともにもう記憶の中にしかないのだ。

 

 

 

 

     少女らの長き手足や秋桜

 

 

 

 

氏神さま・春雨・耳学問 (講談社文芸文庫)

氏神さま・春雨・耳学問 (講談社文芸文庫)

 

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