暮早し

『本の栞にぶら下がる』 斎藤 真理子著

 ハン・ガンの翻訳者として知ったので図書館から借りてくる。「うまい文章だろ」とTが言うが、確かに読みやすい、いい文章だ。斎藤さんは大学生の頃、サークルでハングルに出会われたのがきっかけで韓国文学に造詣が深くなられたようで、このエッセイ集でもさまざま韓国文学者の紹介がある。こちらは最近、ハン・ガンや朴沙羅さん、ソン・ヘウォンさんの著作で隣国の歴史や事情について、ようやく少しわかってきたかなあというところで、ここに出てくる方々もその著作も初めて知るというところである。調べれば何冊かは図書館で読めそうで、メモをした。

 日本人の作品として中村きい子『女と刀』が紹介されているが、図書館にはない。因習に縛られずに激しい生き方をした女性の話らしく、「自分のむこうに思いものをのせててんびんにかけてみたい」(鶴見竣介評)身として、これは自前で購入するしかないと思う。

 「森村桂という作家がいた」という一章がある。 ベストセラーだった『天国にいちばん近い島』は、読んだかどうか記憶にないが、ニューカレドニアという島の名前はそれで知ったし、テレビや雑誌でよく見たあの笑顔は、今でも思い出せる。彼女が『暮しの手帖』社の一員として商品テストで奮闘していたことや、花森にその個性を諭されて作家に転身したことを紹介し、「男性社会や企業社会、それから噂好きのしっみたれた世間への啖呵はいつもさえていた。」とある。斎藤さんにとっては「リアルタイムで読んだ流行作家の筆頭」らしく、森村桂氏は私にとっても懐かしい名前だが、現在を検索すれば既に亡くなったらしく、それも悲しい最期であったようだ。

 

 

         暮早しあるじ亡くして野良となる

 

 

 勝手に「トラックさん」と呼んでいた独り暮らしの男性が孤独死されたのは10月ごろ。トラックの運転手をされていたので、借家の前にはいつも大型のトラックが止まっていたが、そのトラックがなくなって初めて亡くなったのを知った。何年か前までは奥さんも一緒だったが、亡くなられてからは独り暮らしで、半野良のような猫を呼び入れては餌をやっておられた。散歩の折、当方が写してきた猫たちの多くは、このトラックさんの猫。あるじが亡くなって放り出された猫たち。

 

畳替

鮎の甘露煮と畳替え

 昨日連れ合いの友人のHさんから「鮎の甘露煮」を頂いた。Hさんは長良川での釣りが趣味で、今までも鮎やあまごの塩焼きやら生魚を頂いたこともあり、今回は落鮎の甘露煮である。

「鮎の遊漁期間は終わったのではないですか」と訊ねたら、落鮎の場合は12月末までいいとのこと。今はちょうど海に下る途中で、美濃市から岐阜市にかけては産卵の鮎がひしめきあっているらしい。「糸を垂らせば勝手に食いついてくるというありさまでねぇ。朝から昼までで百匹は釣れたかねぇ。面白けど後が困るんですわ。」

大量の鮎を甘露煮にして、それでおすそ分けに頂いたということだが、わが家だけでは食べ切れそうもないので、本家に更におすそ分けにする。

お返しに何もないわが家は、畑で大根を引っこ抜いて渡したとは、わが連れ合いの言葉。

 

 

         これでまあ終の栖ぞ畳替

 

 一茶を真似て気取ってみたが、今更というべきか、今こそというべきか、古家のわが家の畳替えをした。長い間表替えもしていなかったので、晩年に向けての気分一新である。これでまあ、われらの代では最後、この古家としても最後かもしれぬ。

 畳替えに伴って大掃除をしていてダイソン掃除機の不調に気づいた。何とヘッドの蛇腹ホースが破けているのである。購入から6年、あまりに早い破損ではないか。だいたい材質が破れそうな素材である。吸引力の宣伝に惹かれて買ったが、やはり日本製のほうがよかったかしらん。結局ヘッド(¥20350)を買い換えることにして、何とか使えることになったが、気持ちはすっきりしない。

 

 

エンゼルトランペット

 

今朝の冬

『石蕗の花』 広津 桃子著

 山田稔さんが、この作者のこの本に随分ご執心だったということを知って、県の図書館の収蔵庫から借り出してきた古い本。山田さん好みというのが納得いく、しみじみとした読後感であった。

 網野菊という作家は名前しか知らなかったが、この本はその網野さん追悼集ともいうべき体裁のもので、筆者と網野さんとの親しい関係(『石蕗の花)』やら、網野さんの晩年から逝去までの様子(『紅椿』)が書かれている。明晰でいて、情に溢れた文章で、いずれの文章にも表題に関連ある俳句が引かれ、時に目頭が熱くなるほどであった。

 広津さんがここまで懐かしがられる網野さんとはどんな方だったのかと、家にある古い筑摩文学全集を紐解いてみたが、入り組んだ人間関係の描写に、今一歩踏み込めない。網野さんはお母さんも四度も変わり、複雑な人間関係に身を置いた人だということだった。

 広津桃子さんは広津和郎氏の娘。この明晰な文章をもっと読みたいが、作品は多くない。

 

 

                   困惑の選挙結果や今朝の冬

 

 

 

   昨日の散歩で見つけた「野ぶどう」写真ではよくわからないが、瑠璃や紫のとりどりの色合いが美しい。水揚げをして花瓶にさしてみたが、もたなかった。

 

そぞろ寒

平安時代の男の日記』  倉本 一宏著

 今年の大河ドラマ「光る君へ」は、いい意味で期待はずれであった。残り2ヶ月になったが、脚本次第では案外観させるものだ。そのドラマの時代考証担当の歴史学者の、タイムリーの企画本を、ドラマの登場人物を頭に描きながら、面白く読んだ。

 平安期は恐ろしく日記が書かれた時代だったようだ。ここではまず、「日記文学」と言われる女の日記を取り上げておられる。『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『枕草子』『紫式部日記』『更級日記』である。いずれも男の日記とは違い、「筆者の心情の表出を主体として」おり、それゆえ「日記文学」とされる。筆者の女性たちは、ほぼ同時代で、驚いたことに血縁関係か姻戚関係があるという。いずれも全文を読了したことはなく、ここでも抜粋を読んだだけである。

 才媛で当代一の美女のひとりとされた『蜻蛉日記』の著者のお相手が、あの権力欲に取り憑かれた兼家であり、息子が実資の『小右記』で、無能呼ばわりされる道綱であることが、興味深い。 和泉式部の激しい恋のお相手が、あの三条帝の兄弟であったというのも、ドラマからリアルに感じられたことのひとつだ。

 さて、男の日記、こちらは文学ではなく「古記録」としての価値である。世襲貴族社会では事績や儀式次第を書き残すことが重視されたようだ。道長の『御堂関白記』などは、子孫の近衛家によって大切に保管され、応仁・文明の乱でも焼失を免れたが、『源氏物語』の古い写本は燃えてしまった。道長の日記も、行成の『権記』も実資の『小右記』も、ドラマを思い描きながら読むと(もちろん一部の抜き書きである)日記の記述が反映されていることが、よくわかる。

 昨日、実資が幼い女の子を猫可愛がりする場面があったが、実資は「日記を含むほとんどの財産を、婿養子の資平ではなく、年を取ってから生まれた最愛の女である千古に相続させること」にしたというが、あの子が千古なのであろう。

 テレビドラマとの関連でもないと、面白くもないと思ったであろう平安期の日記、おかげで興味を持って読めたが、ドラマ以外の所、例えば平安末期の『左経記』や『春記』は読み残してしまった。 

 

 

       あれもこれも値上がりばかりそぞろ寒

 

 

   前日ある人のブログを読んでいたら、お米は1・5倍になったし、買い物にいっても従来は3千円ですんだのが、今は4千円が普通になったと書いておられた。同感である。うちは3人だから5千円ぐらいですんだのが、7・8千円である。畑の野菜のないときはさらにかかるので、美味しいものをお安く作ることに気を配っている。

 今週末から一挙に寒くなりそう。暑い暑いと言ってきたが、寒くなるのも閉口だ。6月以来、夜明け前に歩いていたのを、夕方に変更した。

 暮れがちの空。日暮れも早くなった。

秋惜しむ

『死はすぐそばに』 アンソニーホロヴィッツ著 山田蘭訳

 期日前投票の後寄った図書館。新刊棚でこれを見つける。ホロヴィッツホーソーンシリーズの新作である。ホロヴィッツは今まで何作も読んだが、いつも納得した読後感があったかというと、どうもそうではない。今回も複雑に絡まった話のようの見えて、謎解きは後付けが多かった。つまり展開につれて予めほのめかされた伏線が回収され、読者にも謎解きの興味があるというのではなかったということだ。ホロヴィッツについては、毎回そんな不満を言いつつも500ページ弱を三日で読み終えたのだから、それなりの面白さはあったということかしらん。彼はかなり日本の事情にも詳しく、本文の中で、最高密室ミステリに島田荘司『斜め屋敷の犯罪』と横溝正史『本陣殺人事件』を薦めておられる。どちらも未読であるが、邦文のミステリは生生しすぎて、どうも苦手なのだ。

 

 娘夫婦がブロッコリーの苗を取りに来て、田舎飯で昼を一緒にする。民生委員のYは一昨日は終日選挙の立会いで疲れたという。昔同じように体験した当方も、とても疲れて一回で懲りごりだったことを思い出した。何年ぶりかで(まさか初めてではないと記憶するが)死票にならずに、当選に繋がった。

 今月のわが誕生日への娘からのプレゼント。いつものように「猫」尽くしである。

 

 

 

       秋らしき秋にも会わず秋惜しむ

 

 今日は20度に届かず、雨も降り出して肌寒い。もう一週間もすれば立冬、秋はいったいあったのでしょうか。

籾殻焼

『密航のち洗濯 ときどき作家』 

       文 宋恵媛(ソン・ヘウォン)・望月優大 写真 田川基成

 

 在日朝鮮人もしくは在日韓国人の人々が、なぜ生きにくい日本での暮らしを選択したかという歴史については、以前このブログでも少し書いた。この本は戦前の日本統治下で、何とか人らしく生きたいと海峡を行き来し、そして無念のうちに果てた在日朝鮮人の男と家族の実話である。

 男はユン・ジャウォン、韓国併合下の朝鮮半島南部、蔚山(ウルサン)で生まれる。実家は山も畑も持つ農家だったが、併合はすべてを奪い去った。豊かさを求めて彼は12歳で渡日したのは関東大震災の翌年だった。進学をして弁護士になるのが夢だったが、生き抜くのに精一杯の現実で、日銭稼ぎの仕事を続けながら、彼は日本語で短歌を作った。

     暖かき春陽てれどもわが部屋のたたみの上に置くかげうすし

 渡日より15年後、彼は一時帰郷するが、やはり東京で日本人を装って生きることを選択した。戦火は激しさを増し、彼にも徴用令書が届く。死の予感に怯えた彼は、再び海峡を渡り、そして終戦。独立に沸き立つ現実は、すぐに朝鮮戦争の混乱に陥り、彼は三度目の日本を目指す。しかし、今回は密航という手段でである。密航船はコレラが猖獗を極め、捕縛。強制送還となる一歩手前で、彼は泳いで脱出する。一緒だった最初の妻を残して。この密航では妻と離れ離れなっただけでなく、兄弟とも二度と会えなくなったし、故国の地も二度と踏めなくなった。

 戦後の混乱した東京に辿り着いても、容易に暮らしの成り立つ仕事は見つからない。家も住まいも転々としながら、彼が目指したのは苦難の道を小説や日記に書くことだった。残された作品には『38線』『密航者の群れ』などがあるようだが、作品が売れるような著名な作家にはなれなかった。貧窮の暮らしの中で日本人の女性と結婚、三人の子どもを得て、たつきとして始めたのは洗濯屋。昼間は必死に働き、書くのは深夜。厳しい暮らしの繰り返しで病を得て、1964年失意の内に亡くなった。53歳だった。

 日本人妻の大津登志子も数奇な運命を辿った人だ。祖父は十回以上の当選を重ねた著名な政治家であり、父も実業家であった。女学校のころは、車で通学したというブルジョアであったが、父も母も兄弟も若くして結核で失い、敗戦時には満州に暮らしていた。敗戦の混乱時に帰国して後、ユン・ジャウォンと出会い、結婚するのだが、朝鮮人との結婚は一族の人々と決定的亀裂を引き起こした。

 「朝鮮人の妻になったというだけで、彼女は見限られた。無知な人ならばまだ考えようもあったが、理学博士や経済学学者といったいわば高い教養のある人や家族たちなのだ。」

と、ユン・ジャウォンも書いている。46歳で夫を失い、親族の応援もなく、彼女は頑張った。洗濯屋から、工場の下請け、経理や会計の仕事で子どもたちを育てた。

 三人の子どもたち、長男泰玄・長女逸己・次男泰真諸氏のその後も、ここには書かれている。泰玄氏はほぼ同世代、逸己氏も大きくは変らない。私なんぞがのんびりと暮らしていた同時代に泰玄氏は家計を助け、勉学に励み、夜間中学から定時制高校、そして上智大学に進学。自らの力で未来を切り開いていかれた。立派なものである。しかし、私は逸己氏に心惹かれた。彼女はいま72歳、幼いころの火傷で右手に障害がありながら、常に家族のために家事全般を引き受け、シングルマザーとして子育てもし、認知症になられた母を看取り、家族の歴史を整理し、そして、ひとり暮らしの今も他人のために働いているという。母は二人の息子にはマンションを買ってやっというが、逸己氏は6畳ひと間のアパートで暮らしている。ここには男尊女卑の古い考えが見え隠れするようだ。

 子どもの頃から差別も暴力も人生の中にあった。家族の中にも、学校の中にも、社会の中にもあった。「暴力が嫌いであったり、差別が嫌いであったりというのは、今も変わりはありません。」

逸己の言葉である。

 在日のひと家族の一世紀に渡る歴史、興味深く読んだ。なお、この本は今年の「本田靖春ノンフィクション賞」を受賞している。

 

 

       籾殻焼今日をかぎりで工事止

 

 朝の散歩道。一晩中くすぶっていたらしい籾殻焼の匂いが漂う。明日から工事による通行止めの看板。いよいよ新道工事が始まる。これで田舎の田んぼの景色も一変するはずだ。

 無花果も終わりになってきた。少し固い実をコンポートにする。赤ワインはちょっとお値段の高いものしかなかったので、白ワインを入れて煮てみた。

 

 

黄葉

名古屋市美術館に『民藝』を観にゆく

 家族で民藝の展覧会に行く。

 柳宗悦らによって収集された民藝品150点の展示である。「衣」(布地や衣類)「食」(陶器やガラス製品)「住」(家具など)のテーマに沿っての分類展示であった。

 一番興味深かったのは「衣」の部分で、これはこちらが手芸を楽しんだりするせいかもしれない。チエーンスッテチで刺し子の施された稽古着やら、模様のようにみえる刺し子の足袋、アイヌ文様の半纏。これは別布に刺繍をしてから厚い布に当て布がされていることがわかった。沖縄の紅型文様の着物も、絹でなく木綿であるのが庶民的だ。特に欲しいなあと思ったのは落ち着いた色目の縞がらの「丹波布」である。横糸の木綿を主に縦糸に絹を入れたものだ。一時は途絶えてしまったのを柳氏らの尽力で復活したものらしい。もちろん今は簡単に手にできるような値段ではなく、観るだけの楽しみである。

 御釜や手箒などもあったが、これとて用の美であることに間違いではない。うちにも古いものはまだあるが、もともと貧乏百姓でたいしたものはない。それでもいくつかある古火鉢などは何とか利用出来ないかと思いつつ結局埃をかぶったままだ。

 

 

         黄葉の大樹を描く課題かな

 

 今回は民芸品でディスプレイした部屋全体を撮影することは「可」でしたが、個別の品物を対象にすることは、許されていませんでした。