『隻手の音なき声』 リース・グレーニング著 上田 真面子訳
Tに回してもらった一冊。副題に「ドイツ人女性の参禅記」とある。そのとおり戦後間もない頃、ドイツからはるばる来日。京都相国寺で参禅に励まれた真摯な記録である。
禅的なものから受ける印象、つまり簡素で穏やかな暮らしぶりというものには、あこがれがある。しかし、「禅」がどういうものか全く知らない。この本で坐禅と参禅の違いも初めて知ったくらいだ。
筆者がなぜ「禅」を体験してみようと思ったのか。そこのところはわからないが、「禅」に精神の安定を求めたのかもしれぬ。相国寺は臨済宗で坐禅とともに公案が与えられる。自分が向き合う「問い」である。これが実に難しい。まず、筆者の場合は「仏とは誰であり、どこにいて、何であるか」(如何なるか是れ仏)であった。
師の老師は「坐れ!坐禅を行ぜよ!」坐って「生死を超えること、生と死という二元論」から自由になれと説かれ、より筆者に相応しい公案が与えられた。
「鳴っている鐘の音を止めることができるか」
「隻手の音声をなんと聴く」
公案を媒にした老師との参禅で、弟子はより深い自己洞察に導かれるようだが、「公案」とはいったいなんであろうか。坐っている間も絶え間なく沸き立ってくる自我を抑えるための手立てであろうか。玄侑さんによれば、「通常の認識や分別を切り捨てて『瞑想脳』とも呼ぶべきもう一つの脳機能をとりもどすための関所」だという。
最後まで公案に苦しむ筆者の心の葛藤の記録を読んだが、私にはよくわからなかった。よくわからないながら最後まで読ませられたともいえる。
このところ、いくつかの体操を始めた。もう一年以上簡単な老人体操と初歩的太極拳を続けているが、さらに腰痛予防やら骨粗鬆症対策やらスクワットやらを隙間時間にやっている。まだ外を歩くには暑く、水泳もできなくなった身の唯一の助けはYouTubeである。継続は何とやら、やらないよりはいいという気がする。
まだ暑いが、いつのまにか日が低くなってきた。
軒下やこんなとこまで秋ひざし
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