北風

『春楡の木陰で』 多田 富雄著

 ダンボール箱に積まれたTの既読本の中から出してきた一冊。

 多田さんは免疫学の世界的泰斗で文筆家でもある。学者として油ののっている時期に脳梗塞で倒れられ、重い後遺症が残った。死を願われるほどの深刻な状況にもかかわらず、いくつかの本を書かれ、時には国の「リハビリ日数制限」制度に対して激しく批判、反対活動もされた。

 さて、この本は病苦の傍らキーボードを叩いて書きあげられたもののひとつで、闘病中とはおもえぬみずみずしくつややかな文章が感動的だ。小編のいずれも思い出を綴ったものだが、表題にもなっている「春楡の木陰で」や「ダウンタウンに時は流れて」が特によかった。

 筆者は、あとがきでこの二編を「青春の黄金の時」だと書いているが、それは六十年代中頃のアメリカ社会を背景に下宿の老夫婦や場末のバーで出会った気のいい人々とそれに深く惹かれていった若い筆者の感受性の話だ。

 自死を選ぼうとするほど苦しかった時、懸命に介護される夫人とあと「十年間は何が何でも生かす。七十七歳のお祝いをしたら死んでもいい。」と約束されたようだが、実際は七十六歳で逝去された。しかし、つくづく常人では思いもつかぬ活動歴であったと思う。

 

 

 

 

        北風や鉢巻をして出番待つ

 

 

 

 

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出番を待っているのは?