『残光のなかで』 山田 稔著
「年をとると記憶力が衰えるというのは、完全には正しくない。ごく近い過去、ついニ、三日前のことすら忘れるようになる反面、二十年、三十年むかしのことを細部にわたって鮮明によみがえらせれるのだ。遠い遠い日のあの人この人、故人とも再会できる。記憶は衰えるのではなく質を変えるのだ。」 「リサ伯母さん」より
山田さんは記憶への渉猟者だ。古い記憶の中からふいに蘇ってきた名前も知らない少女の面影からつむがれた「糺の森」。街のバス停で突然声をかけてきた初恋の人であった老女。彼女の死でわすれていた稚拙な英文の恋文があぶりだされる「女ともだち」。夫と妻、互いに物忘れが始まった二人の、過去の記憶が微妙に食い違っていく「リサ伯母さん」。
すでに充分年をとった身にはどれもこれも身近なことのような気がする。
少しずつ認知症が進んでいった姉は、会うたびに「お父ちゃん、元気?」と父のことを尋ねた。「もう死んだよ。姉さんもお葬式に出たでしょ。」そう言い聞かせると「そうだったかしらん。淋しいねえ。」といったものだ。今のことはすぐに忘れてしまう姉の記憶にも、愛された父の記憶はずっと生きていたのだ。おそらく最期まで。
老いるというのは積み重なった記憶の中で生きるということかもしれない。山田さんの文学が懐かしく慕わしいのは、きっとそういうことだ。
露けしや夢に出てきし義兄と姉
長い影をひいて歩く