昨日は我が家の「新年会」だった。娘一家を迎え大笑いをしていい年の始めであった。
「『こころ』異聞」 若松 英輔著
若松さんによる『こころ』の細読である。先生はなぜ死んだのか。Kはなぜ死を選んだのか。そしてこの本の語り手である「私」はこの手紙を誰にいつ、何のため書いているのか。誰もがすらっと読み飛ばしてきた疑問、わかっていたようでわからない疑問に著者は丁寧に向き合っている。
「この小説が今なおよみつがれている根本の理由は・・・人の「こころ」の実相を捉えようとする果敢な試みだったところにあるのではないか。
この小説の主人公は「私」でもなく「先生」でもなく「こころ」と呼ばれる得体のしれない何ものかであるとさえ言い得る」
その「こころ」は遺書で語られる先生の「こころ」でもあり、多くを語らずに死んだKの「こころ」でもあり、いつも寡黙であったお嬢さんの「こころ」でもあり、そして語り手の「私」の「こころ」でもある。
Kは失恋で死んだのではない。
「あれほど深く信頼した「先生」との関係からも追放されたことに耐えることができなかったからだ・・・・失恋と友情の崩壊を経て彼は、多層的な絶望のなかで、常人がかいま見ることのない、存在の深層にふれたのかもしれない。」
だが、と若松さんは言う。Kが何も語らないまま逝ったという厳粛な事実を無視して安易な理由づけはしてはならないと。
先生はなぜ死を選んだのか。
Kの死から続いている先生の罪の意識は影のようにその精神を蝕み周囲からの孤立を深めていったはずだ。Kと同じように絶望と孤立のなかでKの淋しさを実感するに至った先生は、とうとうKのところに行こうと決心する。「これ以上「K」を一人にしておくわけにはいかない」と。
死は「ようやく訪れた「K」と「先生」の間で交わされた和解の成就にも映じる」と若松さんは括る。
いつも寡黙であったお嬢さんの「こころ」はどうだったのか。
先生はお嬢さんを無垢で何も知らない人のように思っているが決してそうではあるまい。成人した女性として先生とKの間で揺れる気持ちのあったことは確かでありKの死についても先生と同じように苦しんでいたに違いない。その気持ちについて先生と心を割って話し合えなかったことが二人の不幸であった。思うに先生はKにも正直に自分の気持ちを話すことができなかった。唯一、死を前にして「私」にだけ正直に告白したのだ。お嬢さんの立場に立てば傷つけまいとされたことでより深く重い傷を受けてしまったといおうか。筆力があるならば「お嬢さんのこころ」を書いてみたいくらいだ。
さて、語り手の「私」である。
若松さんは「こころ」のすべてが「私」の遺書だったように思われてならないと言う。その推測を受ければ、おそらく先生の歳を遥かに超え死が間近になった「私」だからこそ昔託された重い告白を書き残そうとしたのかもしれない。そう思えば「こころ」は「私」の遺書と思える
漱石の『こころ』を読んで久しい。若松さんの細読の意を十分読み取ったかは怪しいが、この本はもう一度『こころ』読みなおしてみようという気持ちにしてくれた。
明日から病院です。当分の間お休みします。復帰したらまたよろしくお願いします。
せがまれて父も加わる歌留多会