秋めく

 まだもって『大伴家持』である。教養のない身には読めない漢字や意味の解せない歌が多くて百ページを読むのがやっとこさである。

 今回は家持の越中国守時代、年齢で言えば29歳から34歳までの五年間である。国守といえば一国の最高権力者ではあるが都から離れての地方勤務は寂しいものであったようだ。だが、中央政府での政治的確執からは疎外された分、精神は自由で作歌の営みは旺盛になったと北村さんは分析する。

 しかし、赴任後間もなく弟の書持(ふみもち)の訃報が届き、初めての北国の冬に大病を患うなど孤独な彼はますます内向的になったようだ。唯一の慰みというべきものが、詩歌の道で、親しい人と詩歌のやり取りをしながら「山柿の門」の徒たらんことを目指した。「山柿」とは誰か諸説はあるようだが、北村さんは人麻呂と赤人だろうとする。もちろん憶良は父に繋がる人でもあり彼に大きな影響を与えた人には違いないのだが。

  地方で暮らす彼を喜ばせもし悲しませもしたのはやはり都からの便りであった。749年大仏の鍍金のための黄金が陸奥の国から献上され、狂喜した聖武天皇は長い詔書(みことのり)をのべた。その一節で大伴氏や佐伯氏などの旧くからの名族について遠祖の言立(ことだて)ー例の「海行かば・・・」 を引いてさらなる忠誠を求めた。これが家持の胸の内に古代以来の名家という誇りを蘇らせたようだ。人麻呂や赤人をまねた儀礼歌を含めた旺盛な作歌活動に繋がった。

 ところで、国守としての家持はどうであったか。任務には忠実であったが地方行政に手腕を発揮したとは思えないと北村さんは言われる。「誰よりも憶良を敬慕したがついに『貧窮問答歌』への道はたどらなかった」とある。

 この時期残された歌は長歌が多いが、今でもよく取り上げられるという一首を書き写したい。

   春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女

 尚この「乙女」はもっと難しい文字が使われている。ここでの「乙女」は地方暮らし三年目にしてやっと同居になった妻の大孃を指しているらしい。

 

 

 

 

       秋めいて庭に鳩をり鴉をり

 

 

 

 

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