日脚伸ぶ

『あの世」と「この世」のあいだ』  谷川 ゆい著

 副題に「たましいのふるさとを探して」とある。「懐かしくて安心できる」そんな安らぎの地を探して各地を訪ね歩いた話である。「安らぎの地」は時には「この世」と「あの世」が隣り合った地だといい、時には自然に神を感じる地だという。今のこの世知辛い世の中に果たしてそんなところがあるのか。しかし、「カミやあの世自体を見失っている現代日本人の私」は自分の内に残された「身体的感受性」と「微かな野性」を頼りに旅をする。

 訪れたのはかって風葬の習慣のあった南の島。死者と交信できるユタと呼ばれる人が生きる島。生まれ変わりの伝説のある土地。あの世につながる洞窟。祖霊を招く祭りの地などなど。

 さて、旅の結果だが、筆者の意気込みにもかかわらず、どこも中央からほど遠い周辺部なのに、そこですら死者(祖霊)と交わる人も語る人もほとんどいないというのは皮肉だった。それでも筆者は僅かな収穫があったように書き記してはいるが、もはやこの国の信仰的古層は失われたと思うべきではないか。最近つまみ読んだ柳田の本『先祖の話』では、正月の神は祖霊神だという話である。山や彼方の島におられる祖霊神をわがやに招いて丁寧にもてなすのが本来の正月の行事で、仏教色の強まる前の盆と同じものだったらしい。ところが今や正月といえば官製の神社に初詣をするだけになっている。なまはげなどの来訪神もユネスコ無形文化財に登録されたというがそれらもどれほどの信仰心に裏打ちされたものであろうか。

 石牟礼さんは自然への畏怖を失った近代人を呪い、梅原さんは「草木国土悉皆成仏」の法こそ今省みるものだと説いた。

 が、帰るべき自然や信仰をなくした私たちの魂は迷うしかないのかもしれぬ。

 

 

 

  

        はじめてのお使いためす日脚伸ぶ