十二月

「薬石としての本たち」 南木 佳士著

 以前、この人のエッセイ集『猫の領分』を読んで友人に「なかなかよかった」というようなことを言ったら「暗いから」と軽く否定されたことがあった。確かに語り口が暗い。「臆病な思考回路」とあるとおり自省的で、ああでもないこうでもないと逡巡する文章だ。この手のつれ合いだったらうんざりかもしれないが、第三者としてなら嫌いではない。まじめすぎるほどまじめな人柄に、惹かれるものがある。

 この本は、苦手な講演を頼まれた際、来し方に薬石のように頼ってきた本を挙げて、自分を紹介するのはどうかと思いついた結果らしい。挙げられた本は八冊。医師である彼の生業に関するのもあれば、一時心を病んだ時、糧になった本もある。八冊のうちでこちらの既読本は一冊『マンネリズムのすすめ』だけ。これも先の本で彼の薦めを読んだからのような記憶がある。ノートに書き写していることからすると惹かれたことは確かだ。もう一度読みなおしてみたくなったが、他にも読みたいと思ったものは『脳を鍛えるには運動しかない』。いずれも図書館にあるようなので追々読めればと思う。それにしても先に読んだエッセイ集と今回の本とで著者の来歴は概ねわかった。そろそろ老齢の域に達せられた筆者がその後をどのように処されていくか、今度はそんなところを聞きたいものだ。

 

 雪こそ積もらぬが連日の寒さ。ルーチンになっている家事以外は読書と編み物で鬱々として根が生えてきそうだ。そう言えばこの本に引用された言葉にこんなことがあった。

 雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界はそれ自体として陰鬱なのであり、その一点景として私もまた陰鬱な気分になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身が晴れがましいのであり、その一前景としての私も又晴れがましい気分になる。・・・天地有情なのである。その天地に地続きの我々人間も又、その微小な前景として、その有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない。

                            大森荘蔵の言葉より

 偉そうに御託を並べても「心の中」とは所詮そんなもんだということなのだろうか。

 

 

 

 

     ひもすがら空しき老いの十二月

 

 

 

 

薬石としての本たち

薬石としての本たち