はつ夏

此の時期の厨仕事をする。

 お店に青梅が出ている。青々とした可愛らしさで買いたくなるが、買ってどうするか。うちは梅干しはほとんど食べないから、梅干しは漬けない。欲しいのは底をついた梅醤油だが、梅一キロは多い。「焼酎に漬けたら飲むから、作ってくれ」と連れ合いが言う。まだ古焼酎漬けがひと瓶はあるのだが、半分梅醤油にして、半分梅酒にする。

 庭に枇杷の実生の木がある。どんな鳥の落とし物だろう。随分大きくしてしまった。この時期小さい実をいっぱい成らす。面倒だがコンポートにする。灰汁で指が染まるのだが、美味しさに変えられない。Tに手伝ってもらい、まず一回目。

 

 

 

        はつ夏の厨しごとの硝子光

 

 

 

明易し

芭蕉の風景 下』 小澤 實著

 いよいよ芭蕉の最晩年である。

元禄七年春、芭蕉五十一歳。最後となる春を江戸で過ごし、初夏、西を目指して旅立つ。同行は身辺の手助けをする少年次郎兵衛のみ。途中名古屋に足を止め、古い門人の荷兮らと歌仙を巻くが、どうもしっくりこない。かつて共に『冬の日』を巻いてから十年。芭蕉の新しい試み「かるみ」を彼は理解できなかった。実際に読んでいないので何とも言えないが、小澤さんによれば、この時の歌仙は雑でちぐはぐ、駄作だということだ。

 世を旅にしろかく小田の行戻り

「この世を旅に過ごしている私の生涯は、農夫が代掻きをして、田を行きつ戻りつしているのと、変わりません」(小澤訳)

 進んだと思ったら戻って、なかなかだなあと、忸怩たる思いで名古屋を立ったと思われる芭蕉だが、さらに悲しみが追いかける。若いころの内縁の妻ではないかと言われる寿貞の死である。

 数ならぬ身となおもひそ玉祭り

寿貞については諸説あるらしいが、句をよむかぎりではかけがいのない人であったのではないか。

 そして今回の旅の最終目的、大坂での弟子同志の対立の仲裁である。弟子の之道と酒堂は大坂での主導権を廻って対立していた。やや力不足ながら昔から大坂を拠点にしていた之道に対して、若さと才能で近江より進出した酒堂。芭蕉は酒堂の才能を愛しながらも、そこは何とか調停しようとするのだが・・・。

 此秋は何で年よる雲に鳥

「この秋はどうしてこんなに年をとった感じがするのか」(小澤訳)芭蕉の深い嘆きが聞こえるようだ。上五と中七に対して下五の取り合わせを、取り合わせの永い歴史での、最高峰ではないかと小澤さんは書いておられる。

 二人の諍いに疲れた芭蕉は急速に体力を消耗、旅先で五十一歳の生涯を閉じた。翁と称されるが、まだまだ若い行年であった。

 芭蕉の死によって小澤さんの大作も終わったが、長いにもかかわらず最後まで興味深く面白く読ませていただいた。知っているようで知らなかった芭蕉の名句の背景を知ることができたのが、なによりありがたかった。

 

 

 

           行年にわが年思ふ明易し

 

 

 

 昨日、炊飯器を買いに出かけたついでに冷蔵庫も買ってしまった。もう十八年使っているものでドアのパッキングが緩んできて気になっていた。すっかり縮んできた背では最上段は届きにくく、トシヨリむきにややコンパクトのものにという気もあった。「小さすぎたんじゃない」と言われたが、まあ大丈夫でしょう。前のはドアにいろいろ貼り付けていたが、今度のは前面はマグネットが効かない。多少省エネになるとは思う。長い間ごくろうさんと思い出写真を。



 

柿若葉

芭蕉の風景 下』 小澤 實著

  やっと下巻の三分の二あたりまで読了。

「おくのほそ道」から帰った芭蕉は、その後郷里伊賀や大津、京都と関西で暮らす。関西から江戸に帰って五十歳までの五年間、小澤さんはこの間を「上方漂白の頃」と名付けて一章とされている。

「行春を近江の人とをしみけり」

「木のもとに汁もなますも桜かな」

 芭蕉にとっては上方の親しい人々と交流、「かるみ」という新しい境地も見出した時期である。「かるみ」とは何か。「『かるみ』とは日常の世界を日常のことばを用いて、詠むこと」と小澤さん。古典主義を廃し、日常を詠む今の俳句に繋がる境地である。ところが、今にすれば当たり前のことだが、芭蕉の時代には弟子にもなかなか理解されなかった。それだけではない。過日読んだ櫂さんの本には、芭蕉自身のなかにも古典を脱しきれぬ自分との矛盾があったのではないかとの指摘があった。櫂さんは「古典と生きてきた人が古典を捨てる。身を引き裂くこの苦行が芭蕉を憔悴させ、死を早めたのではなかったか」とも書いておられた。その経緯については次の章にあるかもしれないが、この章の後半では芭蕉悩みの種の一方、酒堂が登場した。

 それにしても小澤さん、実にまめに芭蕉の句の故地を訪ねておられる。近江や京都だけでも行きつ戻りつ大変な数である。

 

 

 

       骨密度あげる体操柿若葉

 

 

 

 

風薫る

芭蕉の風景 下』 小澤 實著

 下巻の前半分弱は『おくのほそ道』の句を辿る話である。

 芭蕉陸奥へ旅立ったのは「更科紀行」から帰りて半年後、春三月のことである。四十六歳、百五十五日、2400キロの長旅である。同行者は曽良。彼が後に幕府の巡見使として壱岐で亡くなったことから、この旅にも幕府隠密説などもある。小澤さんも読み進むうちにそんな気もしてきたと書いておられる。もっともそれでこの文学作品の価値が損なわれるものではないとされているが、全くそのとおり。 単なる紀行日記でもない。推敲に推敲を重ねた文学作品であることは、初稿の句と推敲後の句の大きな違いでも明らかだ。

 例えば、

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」誰もが知る芭蕉名句中の名句であるが、曽良が書き留めた初案は「山寺や石にしみつく蝉の声」であった。後者ならば平凡であるが、わずか四文字を変えただけで鳴きわたる蝉の声だけがひびく閑寂な山寺の風景を現出させている。

 初案を推敲するだけではなく、句のリアリティを確かなものにすべく、作句の順を入れ替えたり、読んだ場所を変えたり、時には掲載を止めたりもしているのだ。

 松島の景観に感じた折も「予は口をとぢて眠らんとしていねられず」と、曽良の句だけを書き留めてはいる。が、実際は発句を残していたと、小澤さん。「嶋々や千々にくだきて夏の海」である。これでは理屈だ。つまらないといえばつまらない。文学作品に所載するのを控えたにちがいない。俳句は推敲が大事である。詠み散らすだけの身は反省せねばならない。

 旅の終わりは美濃の大垣。季節はすでに秋であった。『おくのほそ道』に所載はないが、大垣に宿りして伊吹山を読んだ句が引かれている。

「其(その)まゞよ月もたのまじ伊吹山」ー伊吹山はそのままでいい、月の風情を頼ることもあるまい(小澤さん訳)  毎日伊吹山を見ている者としては、何となく嬉しい句だ。

 

 

       さざめきや子らの声のせ風薫る

 

 

 

 

 

若葉雨

芭蕉の風景 上』 小澤 實著

 上巻の残りを読む。紀行文『笈の小文』の部分である。芭蕉四十四歳、伊賀上野から伊勢に参り、吉野、和歌浦、奈良、明石須磨と巡る旅。米取引で罪を得て逼塞中の杜国を誘っての旅でもある。

 折々の俳句が先人たちの古歌を踏まえているのに驚く。そういう教養の乏しい身はいつも底の浅い解釈で読んできた。

 芭蕉の句の中で一番気に入っている句がこの部分に出てくる。

「蛸壺やはかなき夢を夏の月」

 明石の浦での句である。「砂地に沈められている蛸壺に身を入れて、ゆうゆうと眠る蛸。その肌にあわあわと差している月の光を幻視しているのである。」と小澤さん。明日をも知れぬ命を知らず月の光を受けて眠る蛸が美しく哀しい。まさに芭蕉の幻視の力に脱帽である。

明石は芭蕉が踏破した最西の地だということだが、『笈の小文』はここで終わる。が、旅はまだ続き、京で杜国と別れた芭蕉は近江、美濃へと足を伸ばす。

 上巻には美濃から信州へ、更科の月を愛でる旅『更科紀行』も入る。歌枕の地である更科を訪ねる旅は、この後の『おくのほそ道』への小手調べといったところがあったのではないかと小澤さん。

 

 

 

 

          下草を揺らすしずくや若葉雨

 

 

 

 

 

夏草

芭蕉の風景 上』 小澤 實著

 前々から気にかかっていた本を読み始める。まずは上巻の半分、芭蕉四十代初めのころまでである。伊賀上野から江戸に出てきて日本橋辺りから深川に住み替え、野ざらし紀行に出かけるまで(芭蕉四十一歳から四十四歳)。この間の俳句を味わい、その背景の地を訪ねるというのがこの本の趣向だ。

 小澤さんの解説によれば、この時期の芭蕉は、初期の談林俳句の言葉遊びを抜け出し、俳句に自分を詠み始め、取り合わせ俳句を発明し、さらに一瞬の感動を詠んだ。これが今につながる大きな試みにもなった。さらに名古屋の門人と五歌仙を巻きあげ、新風を興したのもこの旅のこと。

 芭蕉の句で一番人口に膾炙している「古池や蛙飛こむ水の音」もこの時期の句。旅から帰って芭蕉庵での俳句だが、一瞬を切り取った名句である。この句以外にも好みの名句はいくつかあるが、一つだけ上げるとすれば、「海くれて鴨のこゑほのかに白し」。小澤さんも「芭蕉の破調の句ではこの句が一番」とされている。破調という変則リズムもいいが、鳴き声を「白し」といったところに際立った表現の工夫がある。熱田の海に臨んでの句らしいが今は熱田から海は見えない。

 

 

 

 

         夏草や荒田を巡り走る水 

 

 

 

 ウクライナの戦争で世界中で食料不足が深刻だというニュース。自給率の低い日本でも他人事ではない話だ。歩いていると田植えの時期なのに田おこしもせず水も引かず荒れたままの田が目立つ。田水はとうとうと流れているのに・・・。米が余っているなら小麦をつくるというわけにはいかないのだろうか。凡人には解せぬこと。

珍しい八重のドクダミの花

 

 コンビニへ自動車税を払いに行く。お金だけ持って納税書を忘れる。最近この手のボケあり。いよいよですかねぇ。

走り梅雨

『やさしい猫』 中島 京子著

 たまたまこの本の名前が出てきた時、旧友は「たいした本じゃないけど」と言ったのだ。予約を入れていた私はそのまま借りたが、期待しないで読み始めた。だが、実に面白かった。複雑な心理描写もなく読みやすかった。最後がハッピエンドだということも勿論いい。(三島はハッピエンドでないと騙された気分になるといったらしいが。)逆に旧友が好評価をしなかったのはそのあたりかもしれないとも思った。

 スリランカ人のウィシュマさんが名古屋出入国在留管理局で収容中に亡くなったというニュースは、確か去年のことであった。この問題はいまでも裁判で係争中と思うが、以前から日本の非人権的入管行政は問題視されていた。それをこの国の人間として恥しいと思いながらも、外国籍の人のことだからと関心が乏しかったのも事実だ。この件で「外国人だから帰れと言われれば帰ればいいのじゃない」と言った知り合いもいた。

 この本はそういった問題にわかりやすく切り込んだ本である。

 スリランカ人の男性と日本人の女性が恋をして結婚しようとした時、彼は失業した。何とか職をと苦戦している間に在留カードが切れてしまったので、入管施設に相談に行ったら、収監されてしまう。家族の積極的な働き掛けにも入管職員は一方的に悪意に解釈して取り合ってくれない。一年以上に渡る仮放免申請や裁判を経て、やっと家族の元に帰れたというのが大筋だが、本来は裁判で勝訴するなどというのは皆無らしい。

 同じ本に埼玉に住むクルド人の少年の未来が閉ざされている話もでてきたが、ちょうど昨日の夕刊の映画紹介欄(プレミアシート)に同じような話があった。「マイスモールランド」という映画でこちらはクルド人の少女の場合だ。この国に生まれこの国で育ったにもかかわらず在留資格が得られず移動の自由も就労の自由もないという。

 労働人口が減って、外国人の働き手が欲しいと言いながらこの矛盾は一体何だろう。

 入管行政を司る法務省というのが人権擁護機関も司るというのも不思議だ。私は長い間その人権擁護局で人権相談に携ってきたが、人権課の人は実に人権擁護にまじめだった。この本に入国管理局の裁量が大きすぎるから問題だというくだりがあるが、彼等は彼等で日本人が偽装結婚などで騙されないようにひたすら職務に忠実なだけなのだろうか。外国人というだけで偏見の目で見がちな日本人の内向き志向にも一因があるに違いないが、やはり制度的な問題点があるにちがいない。

 

 

  

       餌ねだる二羽の子雀走り梅雨