冬椿

『ヨルガオ殺人事件 上・下』 アンソニーホロヴィッツ著  山田 闌訳

 上下二巻を、金曜日に借りてきて四日で読んだ。年末の慌ただしいのにである。ミステリーは、作品の価値にかかわらず問題が解決するまでは読み続けないと落ち着かない。

 さて、評価はどうか。ネタバレになるから詳細は触れないが、犯人は予想どおりであった。つまり私ごときに話の展開を読まれていたのである。今日の新聞広告に仰々しい宣伝が出ていたが、それほどかな。前作『カササギ殺人事件』もそう思ったが。

 今年はこれで読み納めになるかどうかわからないが、年間の総まとめでマイベスト3を決めたい。

 1 洟をたらした神   吉野 せい

 2 読み解き般若心経  伊藤 比呂美

 3 空海の風景    司馬 遼太郎

 伊藤さんは毎年のように挙げてる。やっぱり好きなのだ。宗教も又然り。

 

 

 

 

      気持ちだけ若いがとりえ冬椿

 

 

 

 

 連れ合いに「気持ちだけ若いな」と言われた。そう、我が意を得たり。

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『読み解き般若心経』 伊藤 比呂美著

 いやあ、実に実に面白かった。最後の方は目頭が熱くなった。

 そもそもNHKの「こころの時代」で伊藤さんのお経の話を聞いたのが始まりだ。それで『いつか死ぬ、それまで生きるわたしのお経』を買って読み始めた。途中で図書館でこの本を見つけて時系列からいってもこちらが先かと思った。 それに「般若心経」は数少ない私が諳んじたお経でもあるし、「白骨」という御文(おふみ)も葬式で聞き慣れた文章であり、「歎異抄」もまんざら知らないわけではない。

 死に近いご両親の介護をされながら「死」を考えざるを得なくなった伊藤さんは、様々なお経を読まれたようだが、詩人の言葉で現代語訳されたお経は切実に胸に迫ってきて感動的であった。そしてそれぞれのお経の間間に挟まれる身近なひとの死に係る話も胸に響いた。伊藤さんではないが、これで信仰心が熱くなるというものではないが、まぎれもなく人は「いつか死ぬ」それを忘れぬゆえの「お経」である。

 伊藤さんの父親が、お母さんが亡くなった後に夢でお母さんに呼びかける話がでてきた。

「死ぬときゃ、あれかい、痛いかい?」

お母さんがどう答えられたかはわからなかったとあったが、私も姉の死の後、同じように夢で呼びかけたことがあった。夢の中で、「OO子」と姉に呼ばれたと思ったので

「そっちは、どうなの?」

 と聞いたのだが返事はなかった。いっしょによくお寺参りをした姉には、冗談で先に逝ったら教えてねと言っていたが、やはり先はわからないのである。

 「無常偈」を「常なるものは何もありません 生きて滅びるさだめであります 生きぬいて、滅びはて 生きるも滅ぶもないところに わたしはおちつきます」と伊藤さんは訳している。

 「生きるも滅ぶもないところにおちつく」それならそれでベストではないか。

 

 

 

 

       おとろえを数えて老いに向かふ冬

 

 

 

最近つくづく老いを自覚しています。今さら何をと息子などには言われますが、今さらですが、ここからが正念場です。

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冬の空

『寡黙なる巨人』 多田 富雄著

 12月8日、開戦日の前後に新聞やテレビで戦争に関する特集が組まれていた。この老人がいまさら開戦の詳細を振り返って意味があるとは思えないのだが、知らなすぎることが多いと加藤陽子さんの本を借りてきた。『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』である。対象が高校生諸君とあるので読みやすいと思ったのだが、さにあらず。苦戦してページが進まず、半分でついに中断する。上記の本を手にし、加藤さんの本は後日に回すことに。

 さて、多田さんの本は、前回同様闘病中の話である。歩くことも話すことも食べることも困難になられた筆者だが、きついリハビリを経て、身内にかっての自分ではないが何か力強い「寡黙な巨人」が生まれでてくる実感を持たれた話である。多田さんはこの「寡黙な巨人」と共に新作能も書かれたし、リハビリ日数制限の反対活動もなさった。

 リハビリ日数制限は、調べてみるとやはり医療保険では上限180日のようである。要介護の認定を受けた人は介護保険を使うようだが詳細はわからない。多田さんの苦労は無駄になったのであろうか。

図書館から予約本の受け取り可メールが入ったので出かける。思ったより暖かい天気だったのでコミュニティバスを利用、図書館の玄関前まで行ったら臨時休館だった。前にも同じような間抜けた出来事があったのにまたまたである。公園の写真だけ撮って帰ってきた。

 

 

 

 

        鳩の群れおおきく旋回冬の空

 

 

 

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どんぶりでお食事中です。

北風

『春楡の木陰で』 多田 富雄著

 ダンボール箱に積まれたTの既読本の中から出してきた一冊。

 多田さんは免疫学の世界的泰斗で文筆家でもある。学者として油ののっている時期に脳梗塞で倒れられ、重い後遺症が残った。死を願われるほどの深刻な状況にもかかわらず、いくつかの本を書かれ、時には国の「リハビリ日数制限」制度に対して激しく批判、反対活動もされた。

 さて、この本は病苦の傍らキーボードを叩いて書きあげられたもののひとつで、闘病中とはおもえぬみずみずしくつややかな文章が感動的だ。小編のいずれも思い出を綴ったものだが、表題にもなっている「春楡の木陰で」や「ダウンタウンに時は流れて」が特によかった。

 筆者は、あとがきでこの二編を「青春の黄金の時」だと書いているが、それは六十年代中頃のアメリカ社会を背景に下宿の老夫婦や場末のバーで出会った気のいい人々とそれに深く惹かれていった若い筆者の感受性の話だ。

 自死を選ぼうとするほど苦しかった時、懸命に介護される夫人とあと「十年間は何が何でも生かす。七十七歳のお祝いをしたら死んでもいい。」と約束されたようだが、実際は七十六歳で逝去された。しかし、つくづく常人では思いもつかぬ活動歴であったと思う。

 

 

 

 

        北風や鉢巻をして出番待つ

 

 

 

 

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出番を待っているのは?

木の葉掻く

俳諧辻詩集』 辻 征夫著

 アマゾンで一円で購入。もちろん送料は別だ。なかなかいい本で、得した気持ち。俳句に詩が連動している。私はもっぱら俳諧味のある俳句に惹かれた。季節のせいか冬の俳句に感心する。

 床屋出てさてこれからの師走かな

 熱燗や子の耳朶をちょとつまむ

一番気に入ったのはこの二つ。男の句だなあと思う。こういうのは女ではできない。今どき正月だからといってまず床屋へ行くなんて言うのは古い男だ。ちなみに内の連れ合いは、年の瀬になると「床屋床屋」と煩い。床屋へ行って、さてその後はなにをするんですかね。結局は年忘れとか屁理屈つけて飲むんじゃないですか。

 熱燗をちんちんにつけて、「あつつつ」と徳利を取り上げた手を子の耳朶で冷やすなんて、これは庶民のお父ちゃんだね。

 おでん煮ゆはてはんぺんは何処かな

 あらあらお父ちゃん、鍋の中をそんなにかき回さないで。

もちろん寂しい真面目な句もいくつかあり。

 遠火事や少年の日の向こう傷

 行春やみんな知らないひとばかり

 冬の雨下駄箱にある父の下駄

詩情があるが、こういうのは真似できそうな気も。

古本なので「あとがき」に先の持ち主が引いたと思われる鉛筆の傍線が何本か。気になるので読み直してみたが、どういう意図で引いているのかちっともわからない引き方だった。

 

さて、この本といっしょに伊藤比呂美さんの『いつか死ぬ、それまで生きるわたしのお経』(これは新刊)を購入。これはじっくり読むしかない。 

 本日は終日時雨模様。連れ合いはボランティア先の餅つき大会。師走ですねえ。

 

 

 

 

     五十年(いそとせ)を共にありたり木の葉掻く

 

 

 

 

もう半世紀にもなる我が家の木蓮の大木。毎年この時期は落ち葉の始末が大変だ。今年も散り始めたが、全部散るまではまだまだ。

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十二月

『姉の島』 村田 喜代子著

 『飛族』と同じく離島の海女の婆たちの話である。

島の海女たちは八十五の齢を迎えると、倍暦といって齢を倍に数える習わしがある。ミツルと小夜子は春の彼岸に倍歴で百七十歳になった。現役は引退しても、まだまだ潜る元気はある。時には、倍暦仲間で後の者に残す海の地図つくりに精を出す。小エビが増えてきたところ、カジメの林がよく育っているところ、それから船幽霊にであったところ。婆たちの地図はどんどん拡がる。孫の聖也に教えてもらったハワイ沖からカムチャッカ半島に伸びる天皇海山列。嫁の美歌に聞いた春の七草海山列から秋の七草海山列。累々と続く天皇海山列には、カンム、ユウリャク、オウジン、スイコ・・と古の天皇の呼び名がついているらしい。

 婆たちの興味は島沖に沈んでいるという潜水艦にも及ぶ。戦後アメリカ軍によって接収され強引に沈められたという「伊の四七」と「伊の五八」。超巨大な潜水艦で、今や海底に深く突き刺さって眠っているという。ミツルと小夜子は二人でそれを確かめ線香をあげようと画策するのだが。

全篇、婆の島言葉での語りがいい。『飛族』の婆たちも俗世を超越したような明るさがあったが、この島の婆たちも浮世離れしたように元気がいい。広々とした海を抱かえたのどかな島で暮らしているとこういう老後になるのだろうか。読んでいる間中、島や海の景色がふつふつと浮かんできた。

 

 

          疾く軽く過ぎにし日々よ十二月

 

 

 

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もみぢ

『食べることと出すこと』 頭木 弘樹著

 以前「ほぼ日」で、糸井さんが「幸福というのはおいしく食べて、すっきり出して、ぐっすり眠れること」というようなことを書いておられたが、全くそのとおりだと思った。大病をして歳をとって睡眠障害やら胃腸の不調やら出てくると、その思いはいっそう増した。食べたいものが食べたいように食べられて、前後不覚にぐっすり眠れたのは、それだけで充分だったのだが、あまりにも当たり前過ぎてその幸せに気づかなかった。

 著者は思わぬ成り行きから「潰瘍性大腸炎」という難病を患う。「全大腸炎型」という大腸全体に炎症ができる最も重いタイプで、時と場所を選ばず出るものに悩まされ、長期の絶食と食事制限を強いられた。たかが出すことと食べることなどと思うなかれ。出すことは人の尊厳にかかわるし、食べられないことは人間関係にも関わってくる。自ずとひきこもりになり孤独に陥る。

 この前むかしの仲間から食事会に誘われたが断わった身には、ちょっとだけだがわかるなあという感じ。他にも共感したところはいっぱいあった。例えば「具合が悪いと、小さなことで悩む」とか、 「病気は気の持ちよう」といわれても、良くしたい一心で「あれがよかったか何がだめだったかとくどくどと悩む」とか、「身体は心を操る」って、全くそうだ。

 筆者は今は治療効果があって寛解期だということで、何よりよかったなあと思う。ひどい難病でも出口は見つかるものだということは、ほっとさせてくれることだ。

 

昨日は図書館に行って、その後市民公園の紅葉(黄葉)を見てきた。銀杏はもう半分ほど散り始めていて、今年の紅葉狩はこれで最後かもしれない。

 

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冬桜

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      幾たびももみぢを愛でて時惜しむ