虫時雨

 今回の家持は34歳から42歳まで、越中より帰京して再び因幡国守となって地方に赴任するまでである。万葉集との関係では兵部省の役人として防人の歌を収集した時期にあたり、またこの時期の最後をもって「歌わぬ人」になったということもある。

 さて、少納言として帰任した家持を迎えた中央政界は彼が理想と描くような姿にはほど遠かった。翌年大仏の開眼会が行われたが都の不穏な空気は変わらなかった。大仏造営で民は疲弊、孝謙女帝は仲麻呂と一層親密さを増しさまざまな取りざたのもとになり、新羅との外交は緊張、官僚の荒怠、腐敗は救いがたい状況であった。

 こういうなかで、あちこちの宴席に顔をだしつつ橘左大臣家とのつながりを深めていった家持であったが、聖武上皇の体調が思わしくない時、上皇の信任厚い橘諸兄が失脚する。讒言により自ら職を退いたのである。これにより仲麻呂の専横は一段と極まり、奈良麻呂らのクーデター計画も再燃する。

 橘家とは親しい彼ではあったが謀議には加わらず一線を画していたが、親しい仲間や一族の内からも計画に賛同するものも現れた。彼はなぜ加わらなかったのか。天皇の藩屏としての家柄が反逆者になることをとどめたようでもあるし、保身も働いたのかもしれない。逡巡する彼の思いは長歌「族(やから)に喩す歌」に伺うことができる。力の入った長歌ではあったが歌のやり取りで最も親しかった大伴池主などは謀議に加わった。

 756年の聖武上皇の他界、翌年の諸兄の死を経て仲麻呂の権力掌握はますます進み奈良麻呂らの計画も一層具体化するが実行寸前で密告により発覚、関わった人々は刑死したり獄死したりした。家持と親しかった奈良麻呂は言わずもがな池主もまた同じであった。

 事件後四ヶ月ほど彼はなにも残してはいない。少数の気を許した仲間だけで昔を懐かしむ歌などを詠んだ記録が残るが、彼も事件の災禍を免れえなかったのか翌年突然に因幡の守への赴任が決まる。

 新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

新任の国守として新年の宴で農事予祝を詠んだ歌である。この歌を最後の歌として彼は歌わぬ人になったと北村さんは断定する。

 当時42歳、68歳で陸奥の国において亡くなるまでまだ長い。 

 

 

 

 

        虫時雨夜風入れむと開け放つ

 

 

 

 

 

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