夏の果

大伴家持』  北山 茂夫著

 昨日、一昨日と病院であったせいもあるが、遅々として進まない読書である。

 病院の方は癌の影はなくなったようだと言われ一安心。だが、放射線治療の後遺症はまだ当分は続きそうだ。大きくなった腫瘍を焼き切ったということなので三年ほどは後遺症があるらしい。再発や転移がないだけ感謝しなければと思う。

 さて、家持さんだが今回読んだのは彼の青年期、十代半ばから二十九歳で越中の国守になるまでである。

 社会的政治的には随分激動の時代で毎年のように凶作やら災害、ことに737年には疫病が蔓延して藤原四兄弟も相次いで没した。その後を担ったのが橘諸兄であったのだがその体制に不満を抱く藤原広嗣の謀反が起き,その鎮圧後も藤原家の仲麻呂光明子派との権力争いはつづき不穏な状況であった。しかし、このような状況下にもかかわらず時の聖武天皇は放恣に流されるままあちらこちらと遷都を繰り返し、その放浪は五年に及んだと言う。

 北村さんによれば依存的な青年家持はこういう時代を宮仕えをしながら消極的に生きたようである。一時親しく頼りにしていた橘家の息奈良麻呂が反仲麻呂光明子でクーデターを画策、家持も誘われたようだが参加はしなかった。むろん逡巡とした迷いはあったようでそのころの彼は歌を残してはいない。

 青年期の歌で目立つのは女性との相聞歌で、その上達のために名歌の書き写しを始めたのではないかということだ。何人かの女性との相聞往来があったが本命は伯母坂上郎女の娘、坂上大孃で紆余曲折のはてに彼女が本妻となる。相聞歌以外にも季節の歌や挽歌があるが、北村さんは安積親王に捧げられた挽歌を「人麻呂の作風に学び」ながら「人麻呂とは異なる精彩をはなっている」と大きく評価しておられる。

 大伴の名に負ふ靫(ゆき)帯(お)ひて万代に憑(たの)みし心何処(いづく)か寄せむ

反歌のひとつである。古代よりの宮廷武門の家の後継者という意識のあきらかな一首である。

 

 

 

 

         亡き人ら偲べば遠し夏の果

 

 

 

 

 

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