みどり

『悲しみは憶良に聞け』 中西 進著

 令和騒動に便乗して読んだわけではない。先に人麻呂論を読んでから憶良のことが気に掛かっていたからで、中西さんの本にしたのも読みやすそうだと思ったためで他意はない。長々と言い訳めいたことであるが年号が変わったという大騒ぎの片棒を担ぐ気にはならないので、すみません。まあ私も少しだけ偏屈だがこの憶良という人はかなりの偏屈だ。今回初めて知ったのだが「自然詠」ということを全くしてないようだ。歌の対象は専ら世間(社会)であり人間であり自分であるから、恋の歌などというのもない。万葉集に漢文の長文や序、漢詩が収録されているのも彼らしい。断り書きがないから憶良作とは言えないらしいがおそらく今回の「令和」の出処になった序文も彼の手ではないだろうか。

 さて憶良という人は74歳で亡くなったが(当時としては長命だった)はっきりと氏名が史書に登場するのは42歳に遣唐少録(書記)になった時点で、それまでの経歴は全く不明らしい。中西さんは、多分彼は幼少のころ父と百済から亡命、若いうちは写経生ではなかったかと推察されている。唐から無事に帰国後、伯耆の国や筑前の国の国守を務めている。

 中西さんの言葉を借りれば、「情緒より論理」を重んじ、理屈っぽく自制心も強く現代人のように自我の悩みを詠った人であった。仏典や漢籍にも造詣が深く仏教的悩みや漢籍に寄った詩的表現も指摘されている。有名な「貧窮問答歌」(びんぐもんだふか)や「子らを思へる歌」も彼の体験を詠ったものではなく普遍的なものを歌にしたものだというが、だからといって憶良の社会派歌人としての値打ちが下がるものではなく、普遍的だからこそ今の私達の心に響くと思う。中西さんによれば憶良の生涯を通してのテーマは「悲しみ」であるとされる。人や物や己を愛おしいければ愛おしいほど哀しい、憶良はそういう「悲哀」を詠った歌人だというのだ。

  士(をのこ)やも空しくあるべき万代(よろづよ)に語りつくべき名は立てずして

 注によれば、この歌が詠まれたときの事情は、重病の憶良を見舞った人に対して涙ながらに口ずさんだという。最期まで名にこだわった憶良のこういう自我はどうだろうか。わたしなどはちょっと苦手だ。中西さんはこの「べき」「べき」と二つも入り、反語表現で終わるこの歌が「いかにも『相克と迷妄』をくりかえした憶良にふさわしい」歌だと書いておられる。

 

 昨夜は就寝前に娘とメールで昔話をして、憶良ではないが旧(ふ)りにしの疾きを嘆いて感傷的になってしまった。そのせいか夜半すぎまで寝られずに本は読めたが頭はすっきりしない。

 

 

 

     子の皿に塩ふる音もみどりの夜   飯田 龍太 

 

 

 

 

悲しみは憶良に聞け

悲しみは憶良に聞け