数え日

『冬の鷹』  吉村 昭著

 関川夏央さんの『昭和時代回想』を拾い読みしていたら「評伝もまた小説たらざるを得ない」という小節で、この本が紹介されていた。「小説と銘打ってはいるが、これほど事実に執着する姿勢をみせた作品はまれだ」というくだりでである。興味を覚えたのでTの本棚から抜き出して読み始めたのだが、初めて知る事実も多くてかなり興味深く面白く読んだ。

 さて、この本はかの有名な『解体新書』の訳者 前野良沢の生涯を描いたものである。

 これによれば『解体新書』の訳出という難事業がほとんど良沢ひとりの苦労でなったこと、更に出版に際して良沢の名が記されなかったことなど、意外といえば意外な事実の紹介である。

 教科書などでは杉田玄白前野良沢の共同訳のように習ってきたのだが、当時オランダ語の知識のあるのは良沢ひとりであり、当然ながら良沢が訳したのを玄白が整理するということであったらしい。ただ出版に際しては玄白の活躍が著しく、反対に良沢は不完全なものを世に出すためらいで訳者として名前を出すことも固辞して、世間での名声は対象的なものになったようだ。

  しかし、良沢は終生学究的な姿勢を貫き訳出は医学書だけでなく宇宙論書や地理書にも及び、ニュートンの学説も紹介すれば、アメリカ大陸の発見にも触れ、カムチャッカ半島の地勢についても読み取り、今日から見れば信じがたいほどのことであった。

 江戸も中期の頃の話であり玄白の華々しさとは違い知る人だけが知るという生涯だったようだが、良沢の生き方には惹かれるものがある。「神経」やら「軟骨」という良沢の苦心の訳出から生み出された用語が今でも立派に使われているというのは、報われたようで他人事ながら嬉しい。

 事実に執着していると言わしめただけにこの本では同時代人の平賀源内や高山彦九郎などについてもかなり触れられており、良沢は源内には批判的であり彦九郎には同情的であるように思った。

 

 

 

 

          数え日や待合室の混み合へり

 

 

 

 

冬の鷹 (新潮文庫)

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